偽らぬ愚者達






 林の中を突っ切って鎌石村へ進むという選択は、八雲達の体力を予想以上に削り取っていた。
 でこぼこの、道とも呼べぬ道。足首等にかかる負担は相当なものだ。
 不自然なほど意気込んで進んでいたのも束の間。三人の息は上がり、木に手をつきながら歩く状態が続いている。
「くそっ……。これなら、舗装された道を歩いた方がよかったかもしれん」
 足場の悪い地面を見ながら、花井がふとそう漏らす。
 朝から食料もとらなければ、水もないという状況。いかに日常的に鍛えている花井といえども、辛くないはずが無かった
「そんな事ないですよ。地図によれば、今通ってきた区画の道は曲がりくねっていましたから。こっちの方が、断然早いです。
 それにやっぱり、危険はなるべく避けないと」
 一条が、笑みをつくりながら呟く。
 しかし彼女の足取りもやはり重く、疲労の色は隠せていない。
 それでも一条が皆を鼓舞しようとするのは、きっと自分自身を励ますためなのだろう。そう思いながら、八雲はただ歩き続けていた。
「それはそうだが……。大丈夫かい、八雲君」
 不意にかけられた言葉に、八雲は「大丈夫です」とだけ答え、また足を動かし続ける。
 余計な体力は使わないように。八雲はそれだけを考えていた。
 水も無い。食料も少ない。この状況下では、いつ力が尽きるかわからない。
「頑張ってくれ。冬木に会える事ができたなら、きっと道は開ける」
「そうよ、八雲ちゃん。そうしたら、きっと希望が見つかるはず」
 花井と一条が、笑顔でそう呼びかける。
 八雲は笑うことが出来なかった。なにも疲れていることだけが理由ではない。
 二人の笑顔が、痛々しく思えて直視できなかったからだ。
「きっと、きっとまだ大丈夫だ。僕達が冬木と合流し、ノートパソコンさえ手に入れられれば、きっと……」
 花井のそれは、希望ではなく願望にすぎないのだろう。八雲が抱いた感想は、ただそれだけであった。
 今、自分が手にしている256Mフラッシュメモリ。この中身が何であろうと、死者は甦らない。
 果たして、何が大丈夫だというのだろうか。失ったものを取り戻せるというのだろうか。
 そう言いたかった。大声で、わめき散らしてみせようかとすら思った。が、理性がそれを阻止する。


「しかし、今が冬で助かったな。夏なら、水無しではもちこたえられん」
 気を紛らわせようとしているのか、先程から花井の口数は多い。
 話題は今の窮状を自覚させるものばかりであったが、なにも話さず黙々と歩き続けるよりはいくらかマシであった。
「そうですね。ここから鎌石村まで行くとして、一番近くで水が手に入る場所って言えば高原池に繋がる河川くらいでしょうから」
「あぁ。しかも運の悪いことに、食料がカステラとフランスパンしか残っていないからな」
 フゥ、と溜息をつき、花井が背負ったリュックを軽く叩く。
 斎藤と鬼怒川にほとんどの荷物を奪われ、なんとか取られることを免れた物資は、あまりにも心もとなかった。
 体力の著しい消耗は否めない。こんな状態で“やる気”の人間に会えば、結果は決まったも同然だ。
「これだけ疲れた状況ですから、やっぱり危険は避けた方がいいですよ。これ以上、人が死ぬのは見たくありません」
「その通りだな。やはり、今後も林の中を通って……」

――ガサガサッ

 今後の方針を決めようとしたその瞬間、まるで時間が凍りついたかのように三人の動きが止まった。
 きっかけは、ほんの小さな物音だった。何かが茂みの奥で動いている音。
 緊張感が三人にはしる。花井は臨戦態勢となり、一条は銃を物音がした方に構えた。
 八雲は、何もできなかった。ただ、忍び寄る恐怖に身を震わせるしかない。
 あの茂みから現れるのは何なのか。もしかして、追ってきた斎藤と鬼怒川なのではないのか。
 斎藤の、狂気じみた顔が脳裏を過ぎる。それと同時に、野呂木の異常な姿も。
「誰だ!?」
 花井が叫ぶ。その声は、威嚇というよりも単なる恐怖の現れでしかない。
 そうして皆が見つめる中、茂みから出てきた一つの黒い影に一同は言葉を失った。
「ニャア」
「……猫か?」
 出てきたのは、真っ黒な猫。意外な正体の判明に、花井と一条はほっと胸をなでおろす。
 しかし八雲だけは違った。
 突如出てきた黒い猫。その瞳にも、身体にも、そして額の十字傷にも見覚えがある。
 そんなはずはない。ここは矢神から離れた島のはずだ。
 そう思いつつも、八雲はしゃがみこんで手を伸ばし、いつもの通り名前を呼ぶ。
「いお、り?」
「ニャア」
 黒い猫は八雲に駆け寄り、その腕の中に入っていった。
 八雲はしっかりと抱きしめ、その温もりで伊織であることを確認する。
 何のために、伊織がこの島に連れてこられたのかは想像も出来ない。けれど、確かに伊織はここにいる。
 八雲にはそれが嬉しかった。自分の下へ、親しい者がやってきたということ自体が。
「八雲ちゃん。その猫、知っているの?」
 一条が、訝しげな顔で八雲に尋ねる。
 少しだけ嫌そうにする伊織の頭を撫でながら、八雲は答える。
「はい。伊織は、家で一緒に暮らしている猫です。でも、どうして……」
「何か口にくわえている様だが?」
 花井が、伊織の口元を覗き込んで言った。
 八雲と一条も伊織の口元に注目し、そして一条の表情が暗くなる。


「ドジビロン、ストラップ」
 そう呟く一条の顔を、八雲は覗き込むことができなかった。
 今鳥が好きだったドジビロン。自分達の命を救うきっかけをつくってくれた、ドジビロンストラップ。
 平瀬村での一件以来どこかに無くしてしまったはずのそれを、どうして伊織が持っているというのか。
 その答えは、自ずと一つしか浮かばない。
「……鬼怒川君と斎藤が、あちらにいるという事か」
 伊織がいま現れた方向に、鬼怒川と斎藤がいる。北を目指している八雲達にとっては、悪い情報ではなかった。
 あの二人による更なる犠牲者を出してはいけない。しかし、本気になっている彼らを止めることが出来ないのも事実。
 いや、一つだけ止める方法がある。誰も口にはしないが、一つだけ残された方法が。
 そんな考えが八雲の頭を過ぎった。視線は、一条が持っているショットガンの方へと向かう。
 だがそんな考えは、否定しなくてはいけないものであった。それでは、ミイラ取りがミイラになるようなものだ。
 しかしそれでも、八雲の視界からはショットガンが消えない。
 こちらからは撃たないとしても、仮に――そう仮に、誰かが殺意を持ってこちらを襲ってきたとき、銃を使わざるを得ないのではないだろうか。
 守るために殺すという、矛盾した事を犯さざるをえないのではないだろうか。
 ……そんな事できそうもない。
 八雲が出した結論は、結局そうならざるを得なかった。そしてそれは、自分の大切な人、塚本天満も同じことであろうと、そんな考えがふと頭をよぎる。
 八雲の知っている天満は純真で、無鉄砲で、でも優しい人であった。そんな人が、正当防衛であったとしても人を殺せるわけが無い。
 しかしだからこそ心配なのだ。この島には、殺しを平気で行う人が溢れているのだから。
「……ねぇ、伊織。姉さんを知らない?」
 まさか答えるはずが無いと思いながらも、八雲は伊織に一縷の望みを託す。
 天満に会うことができれば、今の不安も消えるような気がしていた。天満だけが、自分を助けてくれるような気がしていた。
 八雲はそうして、伊織の瞳をじっと見つめていた。すると伊織は八雲の腕をするりと抜け出し、今まさに伊織がやってきた方向へと駆け出す。
 しばらく歩いた後で急に立ち止まり、じっと八雲の方を見つめていた。
 思い出されるのは、雨の日に傘を渡してくれた狐面の子供の姿。そんなまさかと思いつつも、足は自然と伊織の下へと向かう。
「そっちに、いるの?」
 ふらふらと、惹かれるように進んでいく。もしかしたら、伊織の示す方角に天満がいるかもしれない。
 わかってはいる。その方向には、先程今鳥の命を奪った斎藤と鬼怒川がいる可能性も高いということは。
 けれども、いやだからこそ止まることは出来なかった。もし推測が当たっていれば、天満の命が危ないということになるのだ。
 八雲が前に進むと、伊織が先導するように道を示す。
「……今、行くからね」
 八雲は、覚悟を決めていた。しかし。
「待て。八雲君」
 その歩みは、花井の手によって遮られる。彼の目は真剣そのものであった。
 八雲の肩を掴み、一歩も前には進ませない。八雲が痛みを感じるほど、強く押さえつけている。
「離してくれませんか」
 今まで見せた事も無い形相の八雲に、花井は一瞬だけたじろいだ様であった。
 八雲自身、今の自分がどんな顔をしているのかはわからない。わかりたくもないと思いつつ、肩にかかった花井の手を振りほどこうとする。
 だが、花井はそう簡単に折れはしなかった。
「いいや離さん。あっちは危険だと今言ったばかりだろう」


 そんな事、八雲にだって嫌というほどわかっていた。今鳥の死は、八雲にとっても無視できる出来事ではない。
 けれども、進む必要があった。自らを危険の中に放り込むことになっても、南へと向かう必要がある。
「君まで失ってしまっては……」
「じゃあ……じゃあ姉さんはどうでもいいって言うんですかっ!?」
 もう限界であった。八雲の口から、感情が剥き出しの言葉が吐露される。
 もしも『見えて』いたなら、こんな醜い自分に対して花井はどういった悪態をついているのだろうか。そんなことを考えて、八雲は今日が『見えない』日であることは幸運であると感じた。
「そういうワケではないっ! しかしっ」
「私は、行きます」
 必死な花井の言葉を無視して、八雲は自分の決意を一方的に表明する。
 自分を心配しての言葉だというのはわかっている。しかし、そんな事に気を使っている場合ではない。
 明らかに花井は慌てていた。それは見たことの無い八雲の一面を見たからなのか、それとも仲間が自ら死地に赴こうとしているからなのか。
 八雲はふとそんな事を考えたが、どちらにせよ、耳を傾けるわけにはいかなかった。
 こうしているうちにも、天満に危険が迫っているかもしれない。そう考えるだけで、他の事はどうでもよく思えてきた。
「た、たかが猫一匹の気まぐれな行動かもしれんのだぞ! それでも、君は」
「ごめんなさいっ」
「!?」
 次の瞬間、花井は宙を舞っていた。
 手首をつかみ、八雲が花井を投げたのだ。予想外の行動に、花井はろくな受身もとれずに背中から地面へ激突する。
「ガハッ!?」
「花井さん!」
 それまでは傍観しているだけであった一条だが、突然の展開に堪えきれなくなり花井の下へ駆け寄る。
 苦しそうに唸る花井を気遣いながらも、一条は八雲の瞳を真正面から見据えていた。
 八雲は、しかし彼女から目を逸らすしかなかった。
 そうして、ポケットに手を入れる。触れるのは、希望としてすがり続けていたフラッシュメモリ。
「……ごめんなさい。でも、私は行かなきゃいけないんです。一条先輩」
「え?」
 八雲は、フラッシュメモリを一条の方へと放り投げる。
 自分が持っていても仕方の無いものだから。皆を助ける事よりも天満の事で頭がいっぱいな自分が持っていても、どうしようもない代物だから。
 だからこそ、八雲はそれを一条に託した。きっと彼女なら――愛しい人が既にいなくなってしまった彼女なら、自分の様になりはしないだろうと思ったから。
「これって……」
「冬木先輩に会えたら、使ってください。私は、伊織についていきます」
 希望を託したのではない。責任を放棄しただけだ。それでいいのか、と八雲の中で良心の声がこだまする。
 私利私欲に走り、もしかしたらより多くの人の命が救えるかもしれない選択を放棄して、たった一人の姉を探しに行く。それは決して褒められた行為ではない。
 しかし一条は咎めようともしなかった。八雲を見て、フラッシュメモリを見て。もう一度八雲をしっかりと見据えてから、ゆっくりと口を開く。
「……決意は、固いのね」


「はい」
 もう八雲には、何も言うべきことが無かった。
 最後に謝ろうとも思ったが、それは自分の罪悪感を深くして決意を鈍らせるだけ。
 それがわかっていたからやはり何も言わず、一条と花井に背を向けて歩みだす。
「い、一条君。彼女を……八雲君を止めてくれっ」
 背中を強打し悶絶していた花井だが、ここに来て息を吹き返し一条に助け舟を求めていた。
 しかし八雲には、一条は何も言わないだろうという確信があった。
 愛しい人をすでに亡くしている彼女なら、愛しい人の下へ向かおうとする自分の選択にも文句は言わないだろう。
 そして八雲は思っていた。
 彼女が今鳥を失ってもなお皆を救おうという希望にすがり続けているのは、たぶん皆の事が大切だからという理由ではない。
 きっとそれは、彼女自身のため。生きる理由ともいうべき好きな人を亡くし、それでも生き続けていくために、目的を作り上げている。
 そんな彼女が自分を止められるはずもない。彼女と自分との絆は、まだ一日にも満たない。
 わざわざ死地に向かう他人を止めるだけの理由が、彼女には存在しないはず。だから八雲は振り返りもせず、前へと歩み続ける。
 伊織は、こちらを急かす様に前へ前へと進んでいた。それが八雲に、天満が本当にその方向にいるのだという確信に近い思いを抱かせる。
「待っていて、姉さん。今、行くから」
 八雲は歩みを止めない。花井のすがる様な声も無視し、進み続ける。
 もう、邪魔をする者はいない。そう、八雲は思っていた。
「八雲ちゃんっ!」
 しかし背後から八雲を呼ぶのは、決してかからないだろうと思っていた声。
 八雲は振り返らなかった。けれど、進む事もできなかった。いまさら一条に、何が言えるというのだろうか。
 八雲は、自分と今の一条がどことなく似ている様に感じていた。
 愛しい人を探し求めて、他人を気遣う余裕も無く歩き出そうとしている自分。
 愛しい人を失った事で、全てを失うに等しい苦しみを味わい、他人の事を気遣っている余裕なんてないはずの一条。
 そんな彼女から、どんな言葉をかけられるというのだろうか。
 それは罵りの言葉か、嘲りの言葉か。それとも、もっと穢い感情をぶちまける言葉なのか。
 自分はそんな言葉をかけられても仕方が無い行為をしていると、八雲にはわかっていた。
 だからこそ、ただじっと一条の言葉を待つ。どんな罵声にも、耐えるだけの覚悟はあった。
 しかし、身構える八雲に聞こえてきた声は、普段通りの優しく全てを慈しむ様な一条の声であった。
「……一つだけ、約束を守れる?」
「?」
 予想外の言葉に、八雲は耳を疑う。
 一条は、約束と言った。これから道を違う八雲に向かい、約束という言葉を口にした。
 八雲には、一条の真意が読み取れなかった。何を約束しようと言うのか。そんな言葉を、どんな顔をして言っているというのか。
 一度だけだと決め、八雲はその場で一条へと振り返る。
 そこにいる一条が顔に浮かべているのは、失望の色も、嘲りの色でもない。
 それはまさに、今鳥と出会った瞬間に一条が見せていた顔。生きる希望に満ちた、そんな表情であった。
「生きてまた、再会してちょうだい。何があっても必ず。貴女の命は、今鳥さんが救ったものなんだから」


「……!」
 そう言って微笑む彼女の姿が、あまりにも眩し過ぎて。八雲は初めて、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。
 確かに今鳥は死んだ。自分には、もう彼の事を感じる事は出来ない。
 しかし一条は、今鳥の事を想い続けている一条は違うのだろう。彼女は、いつでも彼の事を感じているに違いない。
 彼によって救われた命だから。自分の存在を思う度、いつでも彼の事を思い出せるはず。
 皆を救うという選択は、決して生きる目的として選んだのではない。きっと彼女は、今鳥と共にあるという思いがあるからこそ、彼が守った希望を受け継ごうとしているのだ。
 自分と一条が似ていると思っていた先程までの自分が、八雲は急に恥ずかしくなった。ごめんなさいと、謝ってしまいたかった。
 けれども、喉から出かかっているその言葉がどうしても出てこない。
 わかっているからだ。それを言ってしまえば、自分が立てた決意やらなにやらが崩れて、きっとこの場に留まることを選んでしまうという事を。
 それでは天満の下へは向かえない。だから、ごめんなさいを言う訳にはいかなかった。
「……はい。約束します」
 やっとの思いで、ただ一言だけ。
 恐る恐る一条の顔を覗きこむと、彼女は微笑んでいた。
 まるでこちらの心を見透かしたかの様に。全てをおおらかに受け入れる様な微笑み。
 八雲は心の中で、もう一度だけごめんなさいを言った。
「いってらっしゃい」
「……いって、きますっ!」
 最後にそれだけを口に出して、八雲は伊織と走り出した。
 荷物は何も持っていなかった。どうせ水も食料も無い。それならば、身軽な方がよい。
 両目からにじみ出る涙は袖で拭いさった。今は泣いている場合ではない。涙は目を曇らせる。
 伊織と共に行けば、天満に会えるという事を、また二人で笑いあえるということをただひたすらに信じて、八雲は己の道を走り始めた。
 信じることが、己を動かす糧になるということが彼女にはわかっていたから。



      ※   ※   ※   ※   ※



「ま、待ちたまえっ!」
 強打した背中をさすりながら、花井は八雲を呼び止めようとする。
 しかし八雲は振り返りもせず、真っ直ぐに林の中へと消えていった。
 今の状態では、花井は思う様に動けない。だから今の花井に出来る事は、唯一八雲を止められる存在であったはずの一条を睨み、大声で叫ぶ事だけであった。
「何故止めない!? 一条君、君は一体……」


 何を考えているのか、という言葉が出る事は無かった。
 睨みつけられてもなお、一条は笑っていた。しかしその瞳からは、涙が溢れ出ている。
 それだけで花井には、一条が八雲を断腸の思いで送り出したことがわかった。わずか一日とはいえ、ともに過ごした仲間だ。一人で危険な場所に放り込ませるなど、そう簡単にできる訳がない。
 一条にも、何か思うところがあったはず。そう思い、花井は彼女の言葉を待つ。
 涙を指で拭い、大きく深呼吸してから、一条は言った。
「八雲ちゃんは言いました。『いってきます』って」
「何を……」
 あっけにとられる花井をよそに、一条は話し続ける。
「八雲ちゃんは、帰ってきますよ。私に『おかえりなさい』を言われるために」
 その真っ直ぐな瞳は、八雲の事を心から信じている者の瞳であった。
 理屈ではない。ただ、そう信じられると思うから。だからこそ一条は八雲を送り出したのだと、花井はそう理解した。
「だから私も行くんです。今鳥さんが残してくれた希望、失うわけにはいきませんから」
 そう言って、一条はフラッシュメモリを強く握りしめる。
 今鳥が身を挺して守ってくれた、自分達の希望。一条はそれを受け継ぎ、その命をかけて皆を守ろうとしている。好きな人のために、自分という存在の全てをかけようとしている。
 そして八雲は、大切な姉を想い、自ら危険な場所へと駆けていった。
 彼女達の強さに、花井は歯噛みする。皆、なんと真っ直ぐで純粋な想いを抱いているのかと。それに比べて、自分はなんと優柔不断でフラフラし続けているのかと。
「……つくづく、僕という男はっ」
 花井は考える。今、自分が一番したいことはなんなのか。この極限状態の中で、自分の信念はなにを第一に指し示しているのか。
 答えは一つしかなかった。初めから、とうに決まっていた。
「僕は……」
 誰がなんと言おうと、諦めないと決めた想い。
 それは一目見た瞬間からはじまっていた。止めることなど出来るはずもない。一直線に貫き通すと決めた事。
「僕は八雲君が好きだーーーーーーーーーっ!」
 林に響き渡る大声で、花井が吠えた。びりびりと、体に振動が伝わってくる様な腹からの大声。
 周りから、鳥達が慌てて羽ばたきだす音が聞こえる。
 あっけにとられる一条をみすえ、花井は恥ずかしげも無く主張を続けた。
「今からとる行動は、決してクラスをまとめる者として誇れるものでも、褒められるものでもない」
 そう言って、花井は握りこぶしを顔の前に作り、どこかの独裁者さながらの演説をぶちまける。
「だがしかーしっ! 僕は一人の男として、どうしても譲れないものがある事を思い出したっ!」
 そう言って、テキパキと花井は荷物整理を始める。
 自らのワイシャツに地図の写しをとり、禁止エリアを書き込んでいく。
 一条を見て「フランスパンとカステラどっちが好きかねっ?」ともの凄い剣幕で尋ね、カステラという一条の答えを聞くか聞かないかの瞬間にフランスパンを制服のポケットにねじ込む。
 そうして一通り準備をすませた後、花井は一条にリュックを渡し、そして高らかに宣言した。
「僕は八雲君を追う。止めてくれるなっ!」
 たとえ無責任だと責められようとも、花井は八雲を追う覚悟があった。
 背中のダメージは、徐々に回復しつつある。駆け足程度なら、なんとかなるまでになっていた。
 必死で止める一条の姿を想像し、しかしそれでもこの想い貫かぬわけにはいかないと、歯を食いしばりすがりつく一条の重みに耐える体勢を整える花井。


 しかし一条は花井にすがりつくことなど無く、それどころか引き止めることもしようとせず、やはり笑顔で一言だけ口にした。
「止めませんよ」
「……え」
 予想外の答えに、花井は言葉を失った。
 これから向かう先、北だろうが南だろうが、危険なことには変わらない。
 だとすれば、同行する仲間は多いにこしたことは無いはず。けれども一条は、自分がいらないという。驚きを通り過ぎて、花井はなんだか悲しくなってきた。
「それはそれで、なにか気が抜けるのだが」
「そっちの方が、花井さんらしいですし」
 そう言って、一条はにこやかに微笑んだ。
 たしかに花井は、今までの自分は自分らしくなかったと思っていた。突然訪れた異常な事態に、正常な思考で対処仕切れていなかったという自覚がある。
 しかし今の花井は違っていた。いつもと同じ想いで、ただ真っ直ぐに八雲の事を考えている。まったくもって普段どおり。いつも通りの変態であった。
「う、うむ。やはり、そうかな?」
「はい。何か、しっかり皆をまとめている花井さんが、私には想像できません」
「……」
 悪気が無いことくらい、花井にはわかっていた。
 確かに、いつも肝心なところでクラスをまとめるのは学級委員長の自分ではなく、学級委員の大塚である。
 しかしそれを面と向かって言われてしまえば、反論できない手前どうしようもなくやるせない気持ちに襲われる。
「それに……」
「いや、すまない。もう止めてくれ」
 一条が自分を送り出すために、思いつく限りのフォローを入れてくれようとしていることは伝わっていた。
 しかしいい加減泣いてしまいそうだったので、花井は一条の言葉を遮り、彼女の気遣いに応えるために涙を抑えてしっかりと胸を張った。
「それでは僕は行く。そのフラッシュメモリは、君に任せる。本当にすまない」
「任せて下さい。きっと、ノートパソコンを見つけてみせます」
 そう言って軽く力瘤をつくってみせる一条を見て、花井はガッツポーズで返す。
 一条が冬木に会うことが出来れば、何かが変わるかもしれない。いや、冬木に会うことで、何かが変わってくれなければならない。
 そんな希望を託す相手として一条は十分すぎる資格を持っていると、花井は確信していた。だからこそ、八雲の事を追う決意を固めたのだから。
「では。……そうだ」
「?」
 これから自分達は道を違える。しかしその想いは違っていない。大切な者の為に前へと進み続ける。三人の心は、同じ思いで動いているのだから。
 だから三人――いや四人は、何時までも仲間なのだと、花井は強く思っていた。
 いずれまた会うために。それぞれの目的を果たした後で、無事に再会できるように。
 花井は笑っていた。笑って、そして力強く言った。
「『いってきます』!」
「……『いってらっしゃい』」
 一条がそう言うのを聞き届けてから、花井は八雲の後を追って歩き始める。
 もう迷いなどしない。自分の力を疑うなんてしない。今までどおり、出来ると信じて真正面からぶつかっていくだけだ。
 花井春樹十七歳。A型の牡羊座。好きな異性は塚本八雲。やっと自分を取り戻した彼はここからが本領発揮だと言わんばかりに、鼻息も荒く前へ進み続けた。


【10時〜12時】
【F-03】


【花井春樹】
[状態]:肉体的・精神的に疲労
[道具]:フランスパン・地図入りワイシャツ
[行動方針]: 一人でも多くの人を助ける事を強く決意
      しかしまずは「八雲君好きだー!」

【塚本八雲】
[状態]:肉体的・精神的に疲労
[道具]:なし
[行動方針]:伊織について行き南へ。
      天満を探す、サラを探す、播磨さんに会いたい
[備考]:反主催は半ば諦めかけている。


【一条かれん】
[状態]:肉体的・精神的に疲労
[道具]:ショットガン(スパス15)/弾数:5発
     256Mフラッシュメモリ1本
     支給品一式(カステラ・水なし)
[行動方針]:なるべく危険を回避しながら鎌石村を目指す
       一人でも多くの人を助ける事を強く決意



※ドジビロンストラップは、いまだ伊織がくわえています。



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