裏切り者
フラッシュメモリのことは、そう簡単にはバレないはずだ。
そうやって自分に言い聞かせつつ、播磨は深夜の林中でパソコンを開いていた。
三原と沢近、そして八雲の正確な居場所を確かめるというのが目的の一つ。
“MAP”機能によって彼女達が分校跡付近にいることを確認し、そしてもう一つの目的の為にメールボックスを開いた。
新たな連絡が入ってはいないか。もしかしたら、首輪の当たり番号が連絡されているかもしれない。
期待して開いたメッセージには、しかし首輪の番号は載っていなかった。
三原が打ち込んだ“ある事情によりメールでは連絡できません”という言葉に、播磨は首を傾げる。
電池が切れそうだったとしても、この文章を打ち込む余裕があるなら首輪の番号くらい送信するのに不備はないはずだ。
だとしたら他の理由があるのか。そう、例えば……。
「こっちが、信用されてねぇのか?」
受信ボックスを閉じ、今度は送信ボックスを開く。
そして目に入った文章に、播磨は落胆し肩を落とした。
雪野が打ち込んだその文章は彼女の狂気がにじみ出ているようで、まるで沢近を三原と八雲にけしかけているように――いや、事実けしかけていた。
先程のメールが三原から来ているということは、このメールはもう三原にも見られているのであろう。
なるほど、これではこちらは信用されない。
播磨はそう結論づけ、とりあえずいま自分達が三原達のもとへ向かっているということと、
近づいたらもう一度詳しい位置を伝えるとだけ打ち込んだメールを沢近の携帯へと送り、パソコンを閉じた。
あと少し。もう少しだけ歩けば、このクソゲームから逃げ出す糸口が見つかるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きつつ播磨は立ち上がり、目の前で座り込んでいる少女の下へと進んだ。
「……いくぞ、一条。辛いだろうが、もう少しだけ歩いてくれ」
声をかけても、その少女はうつむいたまま。立ち上がるどころか、動こうとすらしない。
右肩の傷は、播磨が止血しなおした。薬かなにかあればよいのだが、生憎ここにはそんな便利なものはない。
だから止血といっても布を強く当てるくらいのもので、消毒すらしていない粗末なものであった。
そんな状況に歯噛みしつつも、播磨は一条に手を差し伸べる。
「雪野のヤツがいたからこそ、俺らは今生きてるんだ。それをこんなところで無駄にするな。
南にいけば、お嬢……沢近達と合流できる。そうすれば、なんとかなるかもしれない」
一条の左手を掴み、引き上げた。
彼女の身体は、まるで石のように重く、そして屍のように力無い。
手を繋いだまま、播磨は一条の顔を覗き込む。
先程、高野や教師達から逃げ出した時よりは、少しだけだが顔に生気が戻ってきている気がした。
「一条?」
反応を得るため、もう一度だけ呼びかける。
「……」
しかし返答はない。それでも、こちらに抗うつもりもないようだ。
大きく溜息をつき、播磨は一条の手をひきながら歩き始めた。
「大丈夫だからな、一条。なんとかなる。なんとかなるはずだ」
それは一条に言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのか。
どちらともつかない言葉を、播磨は声に出し続ける。
播磨が進む林の中は、星の光も届かない。ただ深く、暗い。先の見えない道であった。
※ ※ ※ ※ ※
「なかなか、面白い話でしたね」
「ん? そうかい。まぁ、ちょっとした好奇心からのつまらない話だけどね」
高野と別れてから2、3分が経過していた。
車は相変わらずの安全運転。播磨を追っているため走行する道はもはや道路とも呼ぶのも躊躇われる道でしかなく、その速度はますます下がっている。
しかし、刑部はそれを追及することは無かった。
ただ真っ直ぐと、ヘッドライトが照らす前方を見つめて頭だけを動かし続ける。
フラッシュメモリの中身が何なのか。その目的は何なのか。
自分の中でうちたてた仮説が自分の中で否定され、また新たな仮説がたつ。そんなことの繰り返しが、彼女の中で行われていた。
「なるほど。このゲームの参加者にウチの生徒が選ばれたのは偶然ではない、と。
そうですね。そういう考えも、あながち突飛な発想ではないと思いますよ」
「もちろん、偶然という可能性は完全には否定できない。けれど、それ以外の可能性が0かと問われればそうじゃない。
もしかしたら、何か具体的な目的の下に矢神高校が選ばれたのかもしれない。そう考えたほうが、不自然じゃないことも色々とある」
「むしろ今までその考えに行き着かなかったことの方が不思議ですね。
このゲームの目的が、参加者の誰かの中にあるという考えに」
確かにそうだと、刑部は思った。
この殺し合いの開始が告げられてから、どれだけ自分が動揺していたかが自覚される。
冷静な判断が出来ていなかったのか。それとも、冷静な思考を自らで放棄していたのか。
大事なところで、情けない。刑部はそんな自分を心の中で嘲笑した。
「そうだな。生徒の中に原因があるという可能性が、偶然という要素を考えなければ一番大きい」
自分のなかで確認するように、刑部は声に出してそう言った。
生徒の中に原因があるとしたら、誰がその原因を持ったものなのか。
やはり先程高野と話したときに自分が言ったように、フラッシュメモリを受け取った八雲に何か特別なものがあるのか。
いや、そうとは限らない。いま生き残っている他の生徒に原因がある可能性も否定できない。
もしかしたら、もう既に死んでしまっている誰かに原因があったのかもしれない。
では誰が? どの生徒が――
「生徒とは、限らないんじゃないですか?」
「なに?」
笹倉の言葉に、刑部の思考は妨げられた。
「原因が生徒とは限らないかも、と言ったんです」
「どういうことだい? この殺し合いの参加者は、生徒以外にはいないだろう。まさか猫や豚に原因があるとも思えないしね」
笹倉の言葉の真意が掴めず、刑部は彼女に尋ねる。
笹倉はやはり表情を変えず視線は前方に向けたまま。巧みなドライビングテクニックで野を走りながら、ゆっくりと口を開いた。
「この殺し合いに参加しているのは、何も生徒だけではありませんよ。先輩、わからないんですか?」
笹倉は片手をハンドルから離し、その手を自らの銃へと運んでいく。
その動作で、刑部は笹倉が何を言いたいのかを理解した。
「教師も参加者……ということか」
「ええ、そうです。私達は、部外者じゃない。もうとっくにこのゲームの一部であり、当事者なんですよ。忘れていましたか?」
そう告げて、笹倉は両手をハンドルへと戻した。
刑部はそれを見届けてから、大きく溜息をつく。
確かに、笹倉の言ったとおりだ。もはや自分達も参加者の一人。逃れることはできないし、するつもりもない。
最後までこのゲームに付き合うことが自分にできる唯一のことだし、また自分がしなくてはいけないことの全てだ。
そうすることで、何か解決の糸口が見えてくるかもしれない。
このゲームの黒幕に、一矢報いるための何かが。
昂る感情を抑えながら、刑部は手の中にあるワルサーを見つめる。
「私達も参加者の一人だとしたら……果たして、誰がこの殺し合いの原因なんだろうね。
ますますわからなくなってきたよ」
答えが返ってくるとは思っていない。それでも、刑部は無意識のうちにそう口に出していた。
そうして、もう一度思考の海に自らを投じようとしたところ――不意に、車がブレーキ音を上げて停止する。
静かな夜の林の中で、エンジン音だけがやけにけたたましく響いていた。
刑部は考えることを止め、笹倉の顔を覗き込む。
「葉子。どうして、止まる? 一体何が」
「知りたい、ですか?」
「え?」
「誰がこの殺し合いの引き金を引いたのか。それを、先輩は知りたいんですか?」
そう問いかける笹倉の顔は、いつもと同じような穏やかさであった。
しかし刑部の心は、それだけでは鎮まらない。
「……知っているというのか?」
「さて、どうでしょう。私は、聞いているだけです。先輩が知りたいのか、知りたくないのか」
笹倉の真意が、やはり刑部にはわからなかった。
やけに喉が渇く。決して暑くはない車内であったが、頬を汗が伝う感触が刑部には認識でした。
「……私は」
どう告げようか。何を告げようか。
様々な思いが混ざり、はっきりとしない刑部の視界の中で、笹倉の持つリボルバーだけが鈍く光って見えていた。
※ ※ ※ ※ ※
「なかなか、興味深い考えですよね」
高野と刑部の会話を聞いた後の管理室は、谷のその一言によって音を取り戻した。
「この殺し合いの参加者にウチの生徒が選ばれたのは、偶然ではない。
なるほど、そういった考えもあったか」
大きくうなずきながら、谷は一人つぶやいた。
そんな谷に、加藤は難しい表情をしながら問いかける。
「しかしいいんでしょうか。必要以上の生徒への接触は、あまり誉められたものではありません。高野に無条件で荷物を与えたのも、許されることかどうか……」
「まぁ、それくらいはいいのでは? あの場で刑部先生達が横やりをいれなければ、高野は単身でフラッシュメモリを処理できてあたかもしれない。
雪野だけでなく、播磨や一条も殺せたかもしれません。そのお詫びとして考えれば、ね」
「しかし……」
「マズい行動だったなら、とっくに上から文句がきていますよ。だから大丈夫です」
そう言い切った谷に対し、加藤はそれ以上何も言わなかった。
それは谷の言葉がまさしく正論であるからだ。
このゲームのルールを決めるのは自分達ではなく、主催者。
主催者が認めれば、すべてのことは許可される。刑部と笹倉の怠慢ともとれる態度も、上からのクレームが無いからこそ放置していた。
もっとも、なぜ上がそれを無視し続けるかを谷自身も理解できてはいなかったが。
「……それにしても、フラッシュメモリの回収に失敗するとは。まったく、刑部先生達はなにをやっているのか」
「そんなに文句を言うのなら、あの時に彼女達と役割を変わらなければよかったんです。それとも、今からあなたも回収に向かいますか? 加藤先生」
「い、いや。文句を言っているのではなく、私はただ、その」
「何もできないのなら、黙っているべきです。ただ不満をまき散らすだけなら、誰にでもできます」
明らかに刺のある谷の発言に、加藤は面食らった表情を見せ、黙りこむ。
郡山は何かを言おうとしたのか小さく口を開けていたが、谷が目を合わせると、あわてて顔を背けた。
谷はフン、と鼻を鳴らしてから、自分の座席に座り込む。
彼が不機嫌なのには、原因があった。
それは、播磨達のところに刑部達がたどり着くわずか十分ほど前のこと。
谷のモニターに、主催者からの個人的なメールが届いたという知らせが現れたのだ。
指令は簡単。もう一度、パソコンで定期放映される姉ケ崎の映像をチェックしろというものであった。
谷はうんざりとしつつも、指令に従い無駄とも思える作業を再開する。
もう、その映像の中には疑うべきモノは何も映されていない――はずだった。
しかし、何かがおかしい。
谷はその映像に、言い様のない違和感を感じていた。
勿論、姉ヶ崎が水着などでポージングをとっているという状況自体がまともではないが、それ以外の何かが、谷の心に引っかかっていた。
それまでよりも慎重に、姉ヶ崎の口から発せられる言葉の一つ一つを谷は聞いた。
けれどもやはり、問題のありそうな言葉は見つからないない。
しかし、その場では谷の頭にかかった靄が晴れることはなかった。
言葉ではなければ、何がおかしいというのか。
この違和感の元はなんなのか。
あれからずっと考えてはいるが、谷の頭に明確な答えは浮かばない。
もしも、姉ケ崎がなにかこのゲームに反抗する行動をとっていたとしたら。それを見つけるのは、自分の役目だ。
だから、もしもできるのだとしたら自分が第一にそれに気づき、彼女にそんな愚かしい行為を止めるよう促さなくてはならない。
他の誰に恨まれても構わない。ここで彼女を護りきれなければ、今まで生徒達を裏切ってきた意味が無い。
そう思い、谷は姉ケ崎が座っているはずの席に目をやった。しかし、そこに姉ケ崎はいない。
慌てて管理室の中を見回す。姉ケ崎は、無線機の前に立っていた。
それが繋がっているのは、刑部達の乗った軍用車。そして、島全体に放送を流すスピーカーだ。
スイッチを切り替える事で、どちらかにつなげることが出来る。
「姉ヶ崎、先生?」
思わず声に出して谷は姉ケ崎を呼んだ。他の二人の視線も、彼女に注がれる。
「……もう、我慢できません」
俯いたまま、姉ケ崎はつぶやいた。
「姉ヶ崎先生。一体、何を」
言い終わらないうちに、姉ケ崎がマイクのスイッチに手をかけた。
「私が知っている本当の事。教えてあげないと」
知っている? 何を?
様々な思いが谷の頭を駆け巡ったが、それが一つに結ばれる前に谷は走り出していた。
嫌な予感がする。止めなくては。
その思いだけで、谷は姉ケ崎の下へ駆け寄った。
肩を掴み、振り返らせて。谷は正面から姉ケ崎を見つめ彼女の行為を制止しようとする。
「姉ケ崎先生っ! あなたは……」
「×××」
「!?」
しかし、谷は止まった。
姉ケ崎が彼の耳元で小さく呟いた言葉に驚きを隠せず、その場に踏みとどまる。
――そんな、まさか。
にわかには信じられないことだった。
けれども、だったら全てが納得がいく。
そして谷は、彼女の行為を妨げる事を止めた。
それが谷自身の意思であり、そして……
※ ※ ※ ※ ※
――ガガッ。
車に備え付けられた通信機から突如漏れたノイズに、刑部と笹倉は同時に注意を向けた。
彼女ら自身は何の操作もしていない。
それが意味することは、今のノイズは管理室から一方的に回線を開かれたから起きたものであるということだ。
『あー、こちら姉ヶ崎です。聞こえてますか?』
通信機から聞こえたのは、姉ヶ崎の声。
車内でその問いかけを受けた刑部は笹倉と一度視線を交わしてから、こちらからの音声を伝えるためのスイッチをONにした。
「聞こえていますよ。何か問題でも生じましたか?」
『いえ、特に問題はありません。ところで刑部先生』
「はい?」
『面白い話を聞きたくはありませんか?』
予想外の問いに、刑部は一瞬だけ言葉を詰まらせた。隣の笹倉も、怪訝そうな顔つきで通信機に視線だけを送っている。
刑部は軽く息を吐いてから、姉ヶ崎の問いに答えた。
「あいにくこの夜道での運転は重労働でしてね。笹倉先生はもちろん、ナビゲートをしている私もそうそう暇ではないのですよ」
もちろん、それは嘘だ。
姉ヶ崎の問いかけに拒否の答えを返したのは、ただ単にその提案が不愉快であり、そして得体の知れないものだったから。
なんとなく、聞きたくは無いという奇妙な予感が働いた。
「ですから、その話は私達がフラッシュメモリの処理を終え、そちらに戻った時にでも……」
『聞いてくれるだけでいいんです』
こちらの言うことなどまるで気にしていないような姉ヶ崎の声に、刑部は眉をひそめた。
隣の笹倉は、無表情のまま無線機を見つめている。
随分と自分勝手な人だ――そう思いながら、刑部は不毛と思われる会話を再開した。
「合いの手などはあまり入れられませんよ。……何かあったんですか? 生徒達に不穏な動きでも?」
ここにきて考えられる話題としては、そのくらいしかないはずなのだが。
しかし例え何があったとしても、フラッシュメモリに関すること以外でこちらが介入することはできない。
だから、何を聞いても仕方が無いというのに。刑部は溜息をつきつつ、姉ヶ崎に問いかけた。
姉ヶ崎は『違いますよ』と呟いてから少しだけもったいぶるように沈黙し、そして静かに語りだした。
『この殺し合いが、今回が初めてのことではないことは、刑部先生もわかってますよね?』
「……サラ君も経験者という話だしね。それに、これだけ大掛かりなことをしでかす連中だ。過去に何回か同じことが行われとしても何の不思議も無い」
この日本に重火器の類を大量に持ち込んだり、島一つを完全に外から隔離したり。
やっているのは余程こういったことに手馴れた者達に違いない。そんな組織が存在している今の社会も、なるほど程好く腐っている。
この殺し合いの目的は何なのか。それは刑部にはわからなかったが、様々な可能性を考えることはできる。
しかし思いつくことはどれも、現実に当てはめるには荒唐無稽な話に思えた。
先程高野にした話も、実際はそんな他愛のない想像の一欠けらに過ぎない。
実験的な目的にしてはサンプルの採集をしているそぶりは見られないし、ただの娯楽だとしたらもう少し魅せ方に工夫があってもよい筈だ。
それでも刑部が話してしまったのは、彼女の中で何かしらの理由を見つけなければこんな馬鹿げた殺し合いの片棒を担ぎ続けることなどできないから。
こんな殺し合いを進んで手伝うものの気持ちがわからない。それが刑部の本音であった。
「じゃあ、日本で行われたのも今回が初めてではない、というのはご存知ですか?」
「……何?」
「今から十年以上前に、似た様な島で、もう少し若い年頃の子供達が殺し合いをしたという事を、先生はご存知ですか?」
姉ケ崎の問いの意味をしばらく頭の中で考えた後、刑部は口を開けた。
「……いや、それは初耳だ。そりゃ、日本で過去にあったとしてもおかしい話ではないが。……それをあなたがなぜ知っている?」
「さて、どうしてでしょうね。笹倉先生、あなたはどう思いますか?」
刑部は、ゆっくりと顔をあげて笹倉の方へと視線を移した。
笹倉は、無線機を睨みつけている。睨みつけて、そして小さく息を吐いていた。
その顔には動揺の色は見えない。まるで、全てを知っていたかの様に。
――そんな、まさか。
刑部の中で、嫌な予感が広がっていく。
笹倉と知り合ったのは、高校でのこと。それ以前の彼女を自分は知らないし、あえて知ろうともしなかった。
だから、“その”可能性は決して否定できない。
手のひらが汗で湿る。手元にあるワルサーが、やけに冷たく感じられる。
心拍数が上昇しているのが自分でもわかった。
「どうしました? 笹倉先生」
スピーカーの向こうから聞こえる姉ケ崎の声が、笹倉の口を開かせる。
「……なるほど。それではやはりあなたが“裏切り者”だったんですか」
「気づいていたんですか?」
「なんとなく、ですけどね」
会話する二人の外側で、刑部は考え続ける。
笹倉と初めて会った時、彼女のどことなく幼い面と、そして時折見せる大人な面のギャップに興味を持ち、交流を図った。
すると妙になつかれて、気づけばいつもそばにいる存在となっていた。
大学こそ別の所に進んだが、笹倉はいつのまにか高校教師の資格をとり、刑部の就任した矢神高校に一年遅れでやってきた。
あの時は、就任するその日までその事を秘密にされていて、いきなり現れた彼女が「よろしくお願いしますね、刑部先生」といった時は、
しばらく何も返せなかった事などが鮮明に思い出される。
「まさか……」
信じていたものが崩れていく様な、そんな言いようの無い感覚。
ワルサーを握る手から、汗が止まった。
刑部は、これまで何もできなかった。生徒を守りたいという想いはあっても、一人の力では実行できなかった。
偶然に自分の生徒が狙われた。原因はわからない。それでは対処のしようがないと、そう自分に言い聞かせていた。
でも、原因がわかったとしたら?
刑部は自分自身に問いかける。
原因が、目の前に現れたとしたら?
刑部は、笹倉を改めて見つめた。
昔からの親友。信頼できる仲間。そう思ってきたし、これからもそうだと信じていた。
だからこそ、刑部はその手を動かす前に。信頼が完全に崩壊する前に、口を開いた。
もしかしたら、それが導く答えは最悪なものかもしれない。
けれども、刑部は聞かずにはいられなかった。
「葉子。君は……」
少しだけ、言いよどむ。
しかしその声を喉に引き戻す事はなかった。
「君が、この腐ったゲームの原因なのか?」
そう告げられた笹倉は、驚いた様に目を見開いた。
しかし次の瞬間またいつもの顔に戻り、そして――
『まっさかぁ! ちがいますよぉ』
刑部の質問に答えたのは、笹倉ではなく姉ケ崎だった。
※ ※ ※ ※ ※
「まっさかぁ! ちがいますよぉ」
おどけた調子で出された姉ケ崎の言葉に、しばらくの間沈黙が流れる。
それは管理室内でも同じだった。いきなりマイクをとったかと思えば、まるで笹倉がこのゲームの経験者であるという様な口ぶりで喋りだし、
刑部がそれを指摘すれば、まるで今までの事が全て冗談だったような口調でそれを否定する。
加藤と郡山の二人は、完全に硬直していた。
谷はそんな二人を見てから、その視線を姉ケ崎に戻した。
『……ちょっと待ってくれ。話の意図が、わからないんだが』
スピーカーから、刑部の声が聞こえてくる。
明らかに、彼女も戸惑っている様に聞こえた。
「だから言った通りです。刑部先生のその推理、残念ながら大ハズレなんですよ」
カラカラと笑いながら、姉ケ崎は告げた。
まるでいたずらの成功した子供の様なその様子に、谷は目を細める。
『じゃあ、いったいあなたは誰のことを……』
『あなたの事ですよね、姉ケ崎先生』
今度は笹倉の声が、管理室内に響く。
『あなたが、裏切り者です。あなたは私達がこのゲームの存在を知る以前から、すでに主催者達と交流を持っていた。……違いますか?』
「なっ!?」
「それは本当か!?」
加藤と郡山の二人から、ほぼ同時に声があがる。
姉ケ崎は二人には目もくれず、満足そうに微笑んだままマイクに向かって喋り続けた。
「正解です。どこで気づきましたか? やっぱり、あの映像で?」
『ええ。おかしいと思ったんです。あんな肩の開いた格好をして、あの時ついたはずの痣が見えないというのは』
谷は、先程偶然見てしまった姉ケ崎の肩にくっきりと浮かぶ痣のことを思い出した。
確かにあれ程の痣、ファンデーションを使っても自然に隠すのは難しい。
今思えば、それがあの映像を見た時に感じた違和感だったのだ。
映像を取れるのは、本当なら自分達がこのゲームの開始を知った後のはずだ。
しかしそこに映った姉ヶ崎の姿は、ゲームを知る以前の姉ヶ崎。
ということはつまり、姉ヶ崎は他の教師の誰よりも早くこのゲームが矢神高校で行われることを知っていたことになる。
自分の中でひどく納得してから、谷は再び意識を目の前で行われている会話に注ぐ。
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