Judas
「誰かが回収に行けばいいんじゃないんですかね」
この一言で管理室の空気が変わった。いや、それは正確な表現ではないかもしれない。
もとよりこの場には高野晶の例の発言により、重く張り詰めた空気が漂っていたのだから。
この場合はさながらピンと張った釣り糸が切れたような、そんな感じだ。
長い戦い--管理室での教師同士の牽制--で張り詰めていた空気は、高野の言葉で臨界点まで到達していた。
何が起きてもおかしくはないその状態で、変化すべきと感じ取った空気自らがその言葉を生んだのだろう。
きっとその言葉はここにいる誰もが脳裏に抱いていた言葉であったが、誰もが口にしたくない言葉でもあった。
その言葉が中に舞って、そこで初めて釣り糸は切れてしまった。
逃がした魚は、もう戻ってこない。今この時、教師達が縋りついた偽者の平安もまた失われた。
自業自得とは言い得て妙だ。この場合はこの言葉ほど相応しいものはない。それは間違いない。
だけれども教師達にも置かれる立場はあって、教師達には選ぶ権利がなかった。
それでも自分達だけ安穏と殺し合いを見守ることは、当然褒められた行いではない。
けれど、一番に罰せられるべきは彼らではない。
もはや主催者と共謀しているともいえる、心の底から『生徒』を裏切った者こそが断罪されるべきだろうと裏切り者自身も認めていた。
『主催者』に情報をリークしている、真の『裏切り者』こそが絶対的悪であるべきだ、と裏切り者も理解していた。
「ハッハッハッハ、ハハハハッフッハハッハハハ。どこに? 何を回収するというんですか? ねぇ、谷先生」
過呼吸の人間のような、そんな引きつった笑い声を上げる加藤もまた被害者だろう。
裏切り者は確かに見ていた。生徒が死ぬたびに握られる加藤のこぶしを。
自分の受け持ちの生徒が死ねば、余計にくっきりと爪あとが残る赤い掌を、裏切り者は確かに見ていた。
殺し合いが行われている中、加藤の顔はいやらしい笑みに染まり、下衆な言葉を吐いてはいた。
人間失格と言えるような行いを、今も続けている。しかしそれでも、加藤が教師であることを裏切り者は認めていた。
それはつまり裏切り者にマークされることに他ならない。
しかし、教師失格である裏切り者よりはマシな人間であることも確かで、裏切り者にはそのことが不快で仕方がなかった。
「加藤先生も本当はわかっているんですよね?」
姉ヶ崎妙はやんわりと告げた。
「私たちがパソコンを回収に行くって意味を、わかっているんですよね」
姉ヶ崎はさらに優しく言葉を発する。
姉ヶ崎がいかに天使のような微笑を浮かべていても、加藤には悪魔のそれにしか見えなかったことだろう。
「いやいや、姉ヶ崎先生。それは常識的に考えておかしいでしょう。なんで私達までそんな危険な目に遭わなければいけないのか」
「そうですね、加藤先生。僕らはダメですけど、生徒は死んでいっても仕方ありませんよね」
谷は躊躇なく生徒の死を引き合いに出した。管理室にいるもの達にとってそのことは驚きに値することだった。
「……」
例えばその驚きは、加藤に言葉を詰まらせるぐらいのものであった。
「まぁ、私達がいくら口論したところで何も変わりはしませんよ。
それより、今はこのことについて意見を聞くためにも主催者側と連絡を取るべきじゃないでしょうか?」
事の成り行きを静観していた刑部が口を開いた。
「ですが--」
「今は一刻を争う状況ですよ、加藤先生」
この管理室において一番不気味な声が響き、教師達の顔には歪なしわが入った。
「もしこのことが原因で大事に至ったら……後は言わなくてもわかりますよね?」
笹倉が続ける言葉に、各々は固唾を飲んだ。
「わかってくれたならいいんです。それじゃあ私が連絡しますね」
もはや異論を唱えるものなど、誰もいない。
「先方に伝えることは、首輪を外せる装置をパソコンにより生徒が発見したこと……だけでいいですよね?」
一瞬の間がもたらしたことの意味を、何人が理解したのだろう。
「あぁ、それだけでいい」
少なくとも刑部にはその意味がわかっていたようだった。
盗聴器の件について報告する必要はない、とその一言で暗に答えているようにも聞こえた。
「なんて返事をしてきますかね……彼らは、この殺し合いを楽しんでいるに違いないですよ。彼らはきっと、僕らに……」
「そうでしょうね。でも、それはそれで望む所です。私達はもう、引き返せませんから」
谷に向けられた姉ヶ崎の笑みには、沈鬱さがありありと表れていた。しかしそれでも谷の顔を染めるほどの艶やかさがあった。
その光景は微笑ましくもあり、これからのことを考えれば悲しくもあった。
「大体奴らはこんな僻地にガンシップやら得体の知れないものまで用意して、やることがそもそも異常なんじゃい」
眠たげな目を擦りながら呟く郡山。
冷静さを欠いた発言には本音が貼り付いているようだった。それを見かねたのか、刑部は咳払いをし、郡山にそれ以上言わせまいとする。
「旧体育館近くの倉庫。あれはずいぶん新しい。あそこには、一体何が収納されているんでしょうかね」
そう呟いた加藤は目が虚ろだ。次々とたがが外れいく教師は刑部一人に抑えきれるものではなかった。
あまりに滑稽な様相を呈してきた管理室だが、それでも現状を笑えるものなどいない、はずだった。
「フフ、フフフッハハハハハハハハ」
あまりに澄んだ響きは、かえって胸の中の黒いものを刺激した。
「なんであんたはそんなに楽しそうに笑うんじゃい」
「だってこれから……面白く、なりそうじゃないですか」
笹倉に貼りついているはずの笑みを見守る刑部は、とても悲しそうな顔をした。
裏切り者にも、自分のしてきたことに罪悪感がないと言えば嘘であった。
裏切り者は、いつも自分を責めさいなむ心と戦っていた。
それでも戦い続けられたのは裏切り者にも守りたいものがあるからに違いなかった。
守りたいものが自分の命か、はたまた何か大切なものなのかは誰も知りはしない。
それでも裏切り者にとって守りたいものは、自分が教師であることよりも大切なことだった。
天秤に掛けることは叶わないが、殺し合いに参加している全生徒達よりも大切な何かが裏切り者にはあった。
自分が本当はこの展開を望んでいたのではないか。
本当は、裁くか裁かれるかの瀬戸際で、自分のしたことの是非を確かめたかったのではないか。裏切り者はそう考えていた。
裏切り者は心の中で密かに笑った。
【午後20〜21時】
【姉ヶ崎妙】
【現在位置:D-06】
[状態]:精神的疲労
[道具]:自動式拳銃(H&K USP)/弾数 16発、9mmパラベラム弾15発入りダブルカラムマガジン1つ
[行動方針]:不明
[備考]:なし
【刑部絃子】
【現在位置:D-06】
[状態]:多少の睡眠不足
[道具]:自動式拳銃(ワルサーP99)/弾数 16発、9mmパラベラム弾15発入りダブルカラムマガジン1つ
[行動方針]:不明
[備考]:なし
【加藤】
【現在位置:D-06】
[状態]:精神的疲労
[道具]:小型短機関銃(イングラムM10)/弾数 30発、.45ACP弾30発入りマガジン2つ
[行動方針]:生き残りたい
[備考]:なし
【郡山】
【現在位置:D-06】
[状態]:健康
[道具]:アサルトライフル(AK-47)/弾数 27発
[行動方針]:不明
[備考]:なし
【笹倉葉子】
【現在位置:D-06】
[状態]:多少の睡眠不足
[道具]:リボルバー(S&W M686Plus)/弾数 6発、.357マグナム弾20発
[行動方針]:不明
[備考]:なし
【谷速人】
【現在位置:D-06】
[状態]:多少の睡眠不足
[道具]:P90(サブマシンガン)/弾数 50発、5.7x28mm弾50発入りマガジン1つ
[行動方針]:不明
[備考]:なし
「--とのことです。電話でお伝えしたように、事態は急を要することになっております。至急救援に向かうべきかと」
一見して執事と思しき男は、目の前のソファーにどっぷりと腰を落ち着けている男に冷静に進言した。
しかし言葉や声とは裏腹に中村--執事の男--の心臓は早鐘を打ち、背中を伝う汗は状況が切迫していることを如実に示していた。
「……その情報は確かなのか?」
中村を背にする形で座っている為、ソファーに佇む男の顔色はうかがえない。
声色からすれば、男はさほど焦っているようには思えなかった。
それでも長年男に仕えてきた中村には、それが振りの態度であることが容易にわかった。
「間違い、ありません」
中村は泰然と、事実を噛み締めるように残酷な現実を告げる。
「そう、か……」
男のその言葉には、中村にしか感じ取れないほどだが焦燥とした響きが含まれていた。
沈黙が流れる。疑問は積み重なり、焦りは渦巻き、やがて時間だけが過ぎ去っていく。その間にも中村の心を悔恨の情が締め付ける。
「マサルはきっと……生きてはいないでしょう」
そして気づけば口を開いていた。
このお方に対して考えるよりも先に言葉が出たことは、中村が覚えている限りでは初めてのことだった。
「私はどのような危険を冒してもお嬢様と、そのご学友を助けに行かなければなりません。
それがせめてもの、マサルへの報いでしょうから」
それが、マサルによって残された使用人としての務めだろうと考えていた。
「行かせられないな」
中村は自分の耳を疑った。
「お前を失う訳には行かない」
男の言葉は中村の予想するものとはまるで違った。中村の想像しえた返答とは、どれもあまりにかけ離れていた。
「お前一人で、行かせるわけにはいかない」
ああ、そういうことか。
中村は、自分の男に対する理解が完全には及んでいないことを反省する。それと同時に勝機を見出した兵士さながらの感激を覚えた。
「それでは--」
男は組んでいた足を崩し、粛々と立ち上がる。
「私が愛理を見す見す見殺しにするとでも? それに、件のメイドに報いるのだろう?」
気づけば中村が男に忠誠を近い幾年月が経っていた。そして今、中村は自分が仕えるべき男を決して間違えていなかったと悟った。
「そう、でした」
血は沸き立ち、胸が躍る。中村の相貌はかつて傭兵部隊にいた頃のそれに戻りつつある。
「そうでした」
中村は忘れない。
人見知りだけれども、気は優しくて力持ち。そして我が子のように可愛がった男がいたことを。
「アスタラビスタベイビー」
「何か言ったか?」
「……いいえ。空耳では?」
「それなら、いいんだ」
--ム゛。
聞きなれた声が、響いた気がした。
【時刻不明】
【中村】
[???]
【???】
[???]
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