羽
奈良健太郎がようやく目を覚ました時、一帯はかなり暗くなりかけていた。
膝、肘、肩、腰……全身が満遍なく痛む。特に右肘が擦り剥けていたようだし、頭もぶつけたようだった。
痛みに顔を歪めながらも、診療所からいくつか薬を持ってきていてよかったと、奈良はとりあえず思考を切り替える事にした。
自転車はすっかりばらばらになり、自身も壮絶に吹っ飛ばされてこの有様だ。放っておくと嫌でも憂鬱になってしまう。
情けない笑顔を浮かべ、ふと奈良は自身の腕時計を見やり――そして、絶句した。
彼の時計は現在、18時5分……放送時間が既に終わった事を示していたのだ。
奈良は頭を抱え、先の放送の内容を懸命に思い出そうとした。誰が放送したのか? 誰が死んだのか?
――どこが、禁止エリアとなったのか?
奈良の心臓の鼓動が一層早まる。禁止エリア……彼は自身に訪れた最大の危機に気付いてしまったのだ。
早ければ19時……あと50分足らずで、どこかが禁止エリアとなってしまう。
もしも知らずにそこに入れば、彼に取り付けられた首輪が爆発するのだ。先日、皆の目の前で死んだ塀内羽根子のように――
彼の取るべき道は一つしかなかった。他の者と合流する事、ただそれだけだ。
このままこの場で怯えていても、禁止エリアは次々追加されてしまう。
だったら少しでも早く行動するしかないのだ。一つでも禁止エリアが増えてしまう前に、他の者に出会えるように。
時間が経てば経つほど不利になる。奈良は重いリュックを開き、いくつもの荷物を取り出した。
勝負は一刻を争う。今までのように周囲を警戒してペースを落とす訳にもいかないし、重い荷物のせいで遅れる訳にもいかないのだ。
リュックの前にはキャンピングライト、水が入ったペットボトルが二つ、そして一丁の銃が並べられた。
先日夜道を歩いた彼は、月明かりもそれなりに明るい事を知っていた。
意外に重量がありかさばるキャンピングライトなど、今の彼には不要なのだ。
水にしても、一つ当り1リットル入っており、何本も持ち歩けば結構な重さになってしまう。
そして、銃だ。彼は現在二丁の銃を所持しており、何も二つも持っていく必要は無い。
少なくとも、少しでも重量を減らしスピードアップを図る為には、銃などいくつあっても役に立たないのだ。
彼は思い切ってそれらを路上に置き去りにしていった。その中に、鬼怒川を仕留めたAR15があると知った上で。
ただ、結城が持っていた銃の方が少し軽かったという、それだけの理由で。
ある程度荷物を減らしたリュックはそれなりに軽くなった。それを揺らし、奈良はただひたすらに走り続けた。
自分の現在地(それすら正確には把握していなかったが)に最も近く、それでいて誰かがいるであろう可能性の高い、東の灯台を目指して。
途中で別の道路と合流する。結城と共に通ってきた道だったが、一帯はその時より明らかに暗くなっていた。
しかし彼には結城と無言で歩き続けた微妙な記憶を思い出す余裕などなく、行きがけには選ばなかった灯台行きの道へ走る。
暗いとは言っても、先日同様に月明かりがそれなりに道路を照らしてくれており、奈良も道を誤る事は無かったのだが……
時計の長針は40分を過ぎてしまっていた。次第に奈良の表情から余裕が消えていく。
元より慣れない長時間のランニングは彼にとって辛い物があった。
だが、それ以上にすぐ目の前に迫る死の危機が、彼の全身から別の種類の汗を噴出させる。
全身の打撲の痛みに加え、襲い掛かる疲労。それでも彼が自身の限界を超え走り続けられたのは、皮肉な事にも彼が感じた恐怖のお陰だ。
彼の脳裏には、いつしか数々の遺体が頭を過ぎりつつあった。
カラスに無残に食い荒らされ、血と異常な臭いに塗れた鬼怒川達の遺体。ああなりたくないと、彼は走り続ける。
彼が見た死という恐怖は、常人が見るそれを遥かに逸していた。自身が招いた部分もあれど、あまりに強烈な程に。
カラスが撒き散らしていた黒い羽根は、その恐怖の一部。彼にとっては最早恐怖の代名詞とすら言える存在だった。
たまに見上げた夜空の漆黒が、そんな恐怖を更に呼び覚ます。
涙さえ浮かべ、奈良は走った。灯台は、まだまだ遠い。
いつしかカウントダウンは始まってしまった。長針は、すでに12の数字のすぐ左横だ。
「あ、あああああ……!」
更に涙を溢れさせ、それでも奈良は走った。
昼間なら別だったかも知れないが、月明かり程度では遥か向こうにある筈の灯台は到底見えない。
彼は結局誰にも会えないまま、ついに最初の禁止エリアが追加されようとしていた。
もしかしたら、禁止エリアはこの場かも知れない。そうでなくても、この先がそうなっているかもしれない。
それでも、奈良は止まる訳にはいかなかった。このまま止まって一人で泣いても、誰かが来てくれる保障はないのだ。
少なくとも氷川村には他に人間が居なかった。そこに誰もいない以上、人がいる可能性があるのは灯台だけ。
一度設定されればゲームが終わるまで働く禁止エリアの怖さを考えれば、例え今回の放送分が全部外れても安心できない。
腕時計を何度も目にし、べそをかき、奈良はそれでも前に進んだ。そして、そんな彼にも等しく、時の流れは訪れる……
ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ……
時計が19時を知らせたと同時、奈良の首輪が突如音を立て始めた。
今までそんな事など全く無かったのに。奈良は、すぐに最悪の事態を悟った。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
リュックを投げ捨て、奈良は今までの疲労も忘れ走った。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」
声を裏返し、涙も鼻水も垂れ流し、奈良は路上で叫び続ける。
「助けて西本君! 花井君! 麻生君! 岡君! 吉田山君ー!」
更に首輪の音が加速するにつれ、奈良の思考はそれに比例して壊れていった。
自身に死が迫る事を告げる音が、彼の心を壊していく。
いくら走れど途切れぬ音が、彼から全てを奪っていく。
「三原さん! 結城さん! つかも」
想いを寄せていた少女の名を呼ぶ直前、小気味の良い音と共に血が首から噴出す。
視線が地面に突き刺さる直前、奈良にはひらひらと舞い落ちる、カラスの羽が見えた気がした。
人を殺した報いなのか、はたまた参加者としての宿命か――
首輪から音が鳴り始めて、30秒といった所だろうか。うつ伏せに倒れた奈良の首からは、なおも血が溢れていた。
彼が倒れた場所はI-09。先程彼が聞きそびれた第五回放送で予告されたとおり、19時より禁止エリアとなった場所だった。
【午後:19時】
【現在位置:I-09】
【奈良健太郎:死亡】
――残り12名
※奈良のリュックは遺体の近くにあります。
突撃ライフル(コルト AR15)/弾数:38発、キャンピングライト(弱で残り2〜3時間)、水2はH-08の路上にあります。
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