S&M
人間には、どうにも向き不向きというものがあるらしい。
幼い頃から両親の経営する銭湯で手伝いをし大人と触れる機会の多かった鬼怒川は、その事を比較的若い年齢で理解していた。
番頭台でお客さんにただ対応するのは得意だが、清掃はどうも苦手だったり。愛想を振りまくのは苦手でも、お金の計算などは早かったり。
正直銭湯にやってくる同年代の女の子に比べ、精神的には自分の方が成長していると思っていたが、身体の発育では劣っていると感じたり。
鬼怒川はよい意味と悪い意味で大人だった。自分にできること、できないことは何かを考え、それを克服しようとする。
そんな彼女が気絶から目覚めたとき、自分が戦いに向いていないかもしれないという考えを抱くのは至極当然のことであった。
「……」
自分達の不注意から引き起こしてしまった予想外の戦闘。今までのようなこちらからの奇襲ではなく、明らかに敵意を持った他人からの銃弾。
どれもこれも鬼怒川が望むようなものではなく、むしろ避けるべき事態であった。しかし銃声は、既に鳴り止んでいる。
「……私、助かったの?」
立ち上がろうと地面に手をつくと、左手のひらに鋭い痛みがはしる。気絶する寸前、何かで深く手を切ったことを思い出し傷口を見ようと視線を移動すると、目に入ってきたのは不恰好に巻かれた包帯と、ところどころにつけてある絆創膏だった。
「やっぱり、助かったんだ」
だとすれば、どこかに戦いを終えた斉藤がいるはずである。しかし部屋中を見回しても、彼の姿は見つからなかった。時計を見ると、時間は四時少し前。気絶してからそれほど時間も経っていないから、遠くに行ってしまったということも考えづらいだろう。
襲撃者の荷物の回収でもしているのだろうか、などと考えながら、鬼怒川はまた助けられる結果となった自分のふがいなさを呪いはじめる。
きっと、そのことを斉藤は責めないだろう。しかしそれが逆に、自分を追い詰めているのだということに鬼怒川は気付いていた。
なぜ斉藤は自分と一緒にいてくれるのか……その理由は、すでにわかっている。
じゃあ、自分は彼にどう接すべきなのか。彼の好意を受け取ることはできない。そんなこと、後で辛くなるだけだ。
それじゃあ、もしも後で辛くならないなら――こんな状況じゃなかったらどう返事をするつもりなのか。
ふとそんな考えが頭を過ぎるが、慌ててそれを振り払った。
考えてはいけない。考えては、今以上に迷いが生じる。それはきっと、自分の命を失うきっかけになってしまうから……。
診療所のドアが開く音で、鬼怒川は一端思考を止めて顔を上げる。
しかしそこに予想していた男の姿はなく、目に飛び込んできたのは右手にぬれたハンカチ、左手に水の入ったペットボトルを持っている奈良であった。
鬼怒川は一瞬身構えたが、奈良が武器を持っていないこと、そして目を覚ました自分を認識した途端笑顔でこちらに近づいてきたことから、警戒を解いて奈良の接近を許した。
「気付いたんだね、鬼怒川さん!」
そう言いながら奈良は鬼怒川の傍に駆け寄り、水の入ったペットボトルを手渡す。
鬼怒川が「ありがとう」と礼を言ってペットボトルに口をつけている最中、奈良はせわしなく鬼怒川の全身を見つめていた。
いやらしい視線ではない。どうやら、全身についた細かい傷の具合を確かめているようだった。
「大丈夫? どこか痛いとこない?」
「この手当て……」
「ああ、僕がやったんだよ。まぁ、絆創膏とか包帯とかつけただけなんだけどさ」
傷の手当をしてくれたのは、斉藤ではなく奈良だった。それを認識すると同時に、鬼怒川に一つの疑問が浮かぶ。
経過した時間から考えるに、おそらく奈良は先程診療所の外に見えた二人組の一人なのだろう。こちらが出した物音に反応しいきなり攻撃してきた彼がなぜ今、自分の治療をしてくれているのか。
それに、斉藤は一体どこにいるというのか。
「ねぇ、奈良君」
「何?」
「斉藤君は? 斉藤君は、どこにいるの?」
「えっ……」
瞬間、奈良の表情が曇った。目が泳ぎ、なにやらモゴモゴと口を動かしてはっきりとは何も言わない。
途端に、鬼怒川の頭に不安が渦巻いた。
「ねぇ、斉藤君はっ!? どこにいるのかって聞いてるのよ! 答えなさないよっ!」
飛び掛りそうな勢いで、鬼怒川は奈良に詰め寄る。
奈良はまたしばらく黙り込んでいたが、やがて観念したのか、ゆっくりと話し始めた。
「僕はここに、結城さんと一緒に来たんだ。そして診療所の中に誰かいるのに気付いて。
そうしたら、結城さんがいきなり銃を撃ち始めて」
思い出すのが嫌なほど怖かったのか、奈良の手は小刻みに震えていた。
奥歯を噛みしめてぐっと堪えているようではあったが、そうでもしなければ今にも泣き出してしまいそうな表情。
しかし鬼怒川にとってそんなことはどうでもよかった。いかに奈良が辛かろうとも、今は自分の求める情報をしゃべってもらわなくては困る。
斉藤が、どこにいるかが知りたい。
「僕は止めたんだけど。結城さん、聞く耳持たなくて……。気付いたら、もう銃声は止んでいたんだ。何がどうなったのかはわからない。
でも、結城さんは死んでいた。そして……」
そして、なんだというのか。
言いようのない不安が鬼怒川を襲った。早く言って欲しい、それでいて言わないでいて欲しい。矛盾する感情が、同時に存在している。だからこそ、鬼怒川はすぐに自覚した。
自分がもう、真実に気付いているということを。
「斉藤君は……」
奈良がそう言って、診療所の外へ視線を向けた瞬間だった。
鬼怒川は奈良を押しのけ、診療所の外へと駆け出す。ところどころが痛んだが、そんな事に構ってはいられなかった。
自分の予想が外れていればいい。斉藤が、生きて笑っていてくれればいい。
きっとそうだ。たぶん外には、結城のリュックを物色している斉藤がいて、笑顔で「さて、情報も仕入れ終わったから奈良は殺すか」って言ってくれるに違いない。
そうであって欲しい。そうでなければ、駄目なのだ。
斉藤が横たわっている姿を見たとき、だから鬼怒川はなかなか現実を受け入れることができなかった。
「……斉藤君? ねぇ、斉藤君ってば」
ゆっくりと、斉藤の傍らに近づく。斉藤は呼びかけには応えず、ピクリとも動かない。
「悪い冗談はやめてよ。ねぇ、約束したじゃない。協力して、生き残るって」
初めてこの島で会ったときに、二人で交わした約束。
あの時なぜ斉藤が挙動不審であったり急にやる気になったりしたのかが、いまでは手に取るようにわかる。
足元に落ちているコルトAR15を持ち上げて、斉藤の手をとった。まだほのかにぬくもりが残るそれは、しかし血色を失っている。
喉の奥からせりあがる何かを抑えながら、鬼怒川は必死で斉藤に呼びかけた。
「ほ、ほら。まだ寝るには早いわよ。これ、持って。さっきみたいに……」
何度も何度も、斉藤に銃を握らせようとする。しかしその度に、彼の手から銃は落ちていった。
ついには諦め、鬼怒川は呆然とする。
なぜだろうか。こんなことになるなど、鬼怒川は考えてもいなかった。
どちらかが先に死ぬだろうということはわかっていたはずなのに。今までこの事態を考えていなかったのは、単に今まで自分達が有利な状況しか経験してこなかったからなのか。
それとも、無意識のうちに考えないようにしていたからなのか。
今更無駄なことと思いつつも、鬼怒川は考え続ける。奈良が後ろから近づいてきたことに気がついても、それは変わらなかった。
「……斉藤君はね、結城さんに撃たれて死にそうな時でも、鬼怒川さんの事を心配し続けてたんだよ」
「……」
心配される価値など、自分にはなかった。これまでずっと、それこそ島で出会った瞬間から、自分は斉藤に生かされ続けている。
そして今回、ついに斉藤は鬼怒川を守り死んでいったのに――いや、死んでしまったからこそ、自分にできることはもう何も無い。
そんな絶望的な現実が、鬼怒川にのしかかる。
「たぶんだけど、斉藤君は鬼怒川さんのことが……」
「それ以上、言わないで」
こちらを気遣うような奈良の言葉を、鬼怒川は遮った。慰めなんて要らない。そんなもの、ただ単に自分が惨めになるだけだ。
斉藤が死んでしまった今、自分は何をすべきなのか。答えは、足元に落ちていた。
「私達はね、奈良君。約束していたのよ。お互い、生き残る為に協力しあうって。ただ、それだけ。それ以上の何物でもない――」
斉藤がもう掴むことのできない銃を、鬼怒川は手に取った。
彼がしようとしていたこと。彼の成し遂げられなかったこと。
今の自分がすべきことは、きっとそれに違いない。鬼怒川は、そう思い立ち上がった。
「――いえ、あってはいけないの」
銃口を、奈良の額に押し当てる。
一瞬の出来事に、奈良は反応できず硬直していた。その瞳に浮かぶのは戸惑い。
「な、にを」
「言ったでしょう? 斉藤君と約束したって。だから、アナタを殺すの」
殺すという単語を放った瞬間、奈良の顔には恐怖と焦りが生じた。
当然だろう。まさか助けた相手に、命を狙われるとは思ってもいなかったはずだ。
しかし鬼怒川は、やめるわけにはいかなかった。自分はここで、奈良を殺さなければいけない。
「ぼ、僕は鬼怒川さんを傷付ける気はないよっ! だからさ、銃を僕に向ける必要なんて……」
「言ってなかったかな。私と斉藤君、このゲームにのっているの」
それは奈良にとって、死刑宣告にも近い言葉であった。絶望の色で奈良の瞳が染まる。
鬼怒川はそれを見て、しかし視線を逸らさなかった。目の前にある、自分が今から殺す相手を真正面から見つめる。
「そんな……」
「助けてくれたことには感謝してるわ。お礼に、苦しまないように殺してあげる」
その言葉が奈良の心を折ったのか。奈良はがっくりと頭を下げ、そしてふるふると震えだした。
しばらくそれを見ていた鬼怒川だったが、徐々に小さな声が洩れてきているのに気がつく。
「……うぇっ、ひっぐ」
「泣いているの? 全く、死ぬ時くらい漢らしくしたらいいのに」
泣きじゃくる奈良の姿が一瞬天満と重なったような気がして、鬼怒川はそう漏らした。
何を守るでもなく、ただ生きたいと逃げ回り、そして恐怖に震える。そんな存在、鬼怒川は認めることができなかった。それを認めたら、必死で戦った斉藤を否定することになる。
生きたいなら、せめて戦うべきだ。そう、例えばララ・ゴンザレスのように。
自分が殺すのに加担した少女の名を、鬼怒川はふと思い出した。
「これなら、塚本さんを守ろうとしたララさんの方がよっぽど漢らしいわね」
そう言った瞬間、奈良はぴたりと泣くのを止めた。
そうしてとてもゆっくりと顔を上げ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を鬼怒川に向ける。
「……どういう、事?」
鬼怒川は思い出す。そういえば、奈良は天満に対して気があるようだった。
天満が烏丸のことを好きだというのはクラスの女子全員の知るところであったし、奈良も普段は積極的なそぶりを見せなかったから、まったくもって忘れていたことだ。
愛しい人を失った気持ち。なぜか今の鬼怒川には、それがわかるような気がして。
気がつけば引きつった笑いを浮かべながら、鬼怒川は話し出していた。
「そんなの、ちょっと考えればわかるでしょう?」
「嘘だ、まさか」
否定する奈良の心を、壊してしまいたい衝動に駆られる。
どうしてなのかわからないけれども、鬼怒川は自分を抑えることができなかった。
そして絶望すればいい。
奈良が苦しむ姿を見ることで、自分の中の何かが癒されるわけではないのだけれど、鬼怒川はそれでも言葉を発しつづける。
「本当の話よ。斉藤君が――いいえ」
天満を殺したのは、確かに斉藤だ。でも斉藤は、斉藤自身のためだけではなく自分“達”が生き残るために天満を殺したのだ。
だから鬼怒川は、あえて「斉藤が殺した」というのを止めた。
斉藤と自分は、運命共同体。人殺しさえも二人で分かち合うべきなのだから。
「私達が、塚本さんを殺したの」
その言葉を発した瞬間、奈良は大きく目を見開きそして再び力なく倒れこんだ。
もはや涙も出てこないらしい。絶望とは、そんなものなのだろうか。
そんなことを思いながらも追い討ちをかけるように、鬼怒川は奈良に語りかける。
「これでわかったでしょう? 私達は、勝ち残ろうとしているの。だから、アナタを殺すことにはなんのためらいもないのよ」
反応は無い。
弱々しい奈良の姿を鬼怒川は望んでいたはずなのに、なぜか今の奈良は不愉快なもの以外の何ものにも見えなくて。
「聞いているの? ……ねぇ、何か言いなさいよっ」
鬼怒川は奈良の腹を蹴り上げた。銃では感じることのない、肉の感触。
「ゴフッ!?」
奈良は唸りながら転がり、そのまま力なく天を見つめた。
その瞳に力はなく全てを諦めているように見えて、鬼怒川はそれが自分の力による結果だと改めて認識する。
そして襲いくる吐き気。
自分にはそんなに人殺しが向いていないというのか。そんな考えを否定するように、鬼怒川はひたすら奈良の横腹を蹴り続ける。
クラスメイトを傷つけているという実感、それが直に伝わってくる。吐き気も徐々に収まってきた。これが馴れというものだろうか。
「ほら、私にだってできるわ。きっと、できる! このまま皆を殺していって、そして――」
「……そして、どうするの?」
奈良の一言で、鬼怒川は蹴ることを中断した。
奈良の瞳には、相変わらず光がない。でもその声にはなぜか力がこもっていて、鬼怒川は銃口を奈良に向けたまま尋ねる。
「やっとしゃべったかと思えば、どういうことよ?」
「僕さ、塚本のこと好きだったんだ」
「……へぇ。それは、可哀想なことしちゃったわね」
小馬鹿にするような口調で鬼怒川は言ったが、奈良は怒りもせず淡々と話し続ける。
「だから、塚本がずっと心配だった。ララさんと一緒だったら僕と一緒にいるより安全だって事はわかってたけど、それでも心配だった。たぶんそれが、僕がこの島で生き残ろうって思う原動力だったんだ。
でも、さ。さっきの放送で、塚本の名前が呼ばれて。……信じたくなかったんだ。首輪かなんかの故障で、先生達が勘違いしてるのかもしれないじゃない?」
鬼怒川は、奈良のことを哀れみの瞳で見つめていた。
最も近くで天満が死んだ現実を目の当たりにした鬼怒川は、奈良の希望は叶わないことを誰よりも知っている。
「……うん。わかってるよ。そんなことはありえないっていうのも。でも、諦めたくはなかったんだ。
鬼怒川さんが彼女を殺したって言ったとき、だから僕の中で、生きる理由はなくなったのかもしれないね」
そう言って、奈良が笑う。
見たことも無い、悲しい笑顔。鬼怒川は視線を逸らさなかったが、ただ黙って見ていては耐えることなど出来そうもなく、何とか搾り出した声はやけに震えていた。
「少しは、漢らしいところあるじゃない」
「ありがとう、でいいのかな。こういう場合」
学校祭のサバイバルゲームのときに習ったように、そして斉藤がそうしていたように、鬼怒川はコルトAR15をしっかりと構える。
これ以上、奈良と話していてはいけない。なんとなく、そんな気がしたから。
「最後に一つだけ聞いていいかな?」
奈良がそう言うのを聞いて、鬼怒川は今すぐ殺さなければいけないと銃を握る手に力をいれる。
しかし引き金にかかる指は動くことはなく、代わりに動いたのは鬼怒川の口であった。
「……特別に、聞いてあげるわ」
「皆を殺して、生き残って。鬼怒川さんは、なんの為にそんなことするの?」
「何の為って……。生きたい、って思うのに理由なんていらないでしょ。つまらないこと聞かないでよ」
協力してできるだけ生き残るというのは、斉藤と約束したこと。皆を殺すというのは、その手段だったはずだ。
でも、途中で気がついた。自分には人殺しは向かないということを。
おそらく一人でこんなことをやっていたなら、一人も殺せないうちに自分が殺されていたに違いない。
ならばなぜ人殺しを続けていたのか。……それは、斉藤がいたからだ。
「……鬼怒川さん、斉藤君と協力してたんだよね。生き残るために。でもさ、それって矛盾してないかな。だってもし鬼怒川さん達が皆を殺し続けたとしても、結局は――」
「つまらないこと聞かないでよっ!」
もう一度、つま先で奈良の横腹を蹴り上げる。
奈良はそのまま転がり、しかしうめき声ひとつたてることもなく、真っ直ぐと鬼怒川の瞳を見つめていた。
「……結局は、一人しか生き残れないんだよね。一体どうするつもりだったの?」
「そんな事……実際にそうなってから考えればいいことでしょ。そもそも、もう斉藤君が死んでしまった今となっては……」
自分で口に出したことで、改めて斉藤の死を実感する。
今となってはもう、二人で生き残ったときにどちらが犠牲になるかを悩む必要もない。
けれどもし、そんな事態になっていたら、一体どちらが死ぬことになったのだろうか。
そう思い悩む鬼怒川の横で、奈良はゆっくりと立ち上がった。
腹部を痛々しげに押さえながらも、その視線は鬼怒川から逸れることはない。
「鬼怒川さんは知っていたんでしょう? 斉藤君が鬼怒川さんのことを好きだってこと」
「……黙りなさいよ」
そう、知っていた。斉藤の自分に向ける感情が、異性に対する好意だということは。
確かに、それを口に出すことはなかった。しかし。
「もしかして、最後にはそれを利用して斉藤君に死んでもらおうと思ってたとか?」
「そんなワケないじゃないっ!」
しかしそれは、決して斉藤を利用するためなんかじゃない。
もし斉藤の好意を認め口に出してしまえば、自分もそれに何らかの形で応えなくてはいけなくなるから。
そして応えるということは、自分自身にいずれ大きな傷を残すということが鬼怒川にはわかっていたから。
「そんなワケ……ない……」
もう、銃を支える力は手に入らなかった。銃口の狙いが、徐々に奈良の額から逸れていく。
殺さなくてはいけないはずなのに。奈良の命を奪うことで、クラスメイトの命を奪い続けることで、斉藤と一緒にいたことを意味あるものにしなくてはいけないのに。
「ねぇ、僕思うんだよ。もしかして鬼怒川さんって」
なんで腕に力が入らないのか。なんで目の前にいるクラスメイトを殺せないのか。
鬼怒川はわかっていた。わかっていたけど、認められなかった。
今ここで奈良を殺せば、自分は自分が生き残るためだけに人を殺してきたという証明になる。
それが理解できているのに殺せないというのは、命題自体が間違っているから。
自分が人殺しを続けてきた理由は、別のところにある。
そしてその理由は。
「斉藤のこと、好きだったの?」
二人でともにいるうちに、育ってしまった自分の想いに違いなかった。
腕からは完全に力が抜け、銃は手から離れ地面へと落ちる。
とめどなく涙が流れていた。それは事実を事実として認めたからこそ流すことのできる涙。
斉藤が死んでしまったこと。そんな彼に想いを告げることができなかったこと。
そして今まで想いを認めようとしなかった自分自身に対する悔しさが、瞳からポロポロと流れ続ける。
「うっ……ううっ……!」
奈良がゆっくりと近づいてくる気配を感じる。
きっと彼は慰めの言葉をかけてくれるに違いないと、鬼怒川は思った。
そんなことは止めて欲しい。そんなことをされれば、きっと泣き声を堪えることもできないから。
「鬼怒川さん……」
頭上から聞こえる、奈良の声。
そして次の瞬間聞こえたのは、予想していたものとはかけ離れた言葉であった。
「折角の力、手放しちゃ駄目だよ」
「え?」
頭に押し付けられる、硬く冷たい感触。しかしそれ以上に冷たいのは、奈良の声の響きだった。
先ほどまで見せていた穏やかさも、温かみも、その他一切の感情が感じられない。
しかし鬼怒川は、どこかでこの声を聞いた様な気がした。
「このまま死ぬのも悪くないって思ったけど、やっぱり止めることにしたよ。せっかく機会が与えられたんだからさ」
どこで聞いた声なのか。鬼怒川は必死で頭を働かせる。
幼い頃か中学生の頃か、高校生になった頃か、それともこの島にきてからのことか。
そしてついに鬼怒川は結論に達した。この声は、同じなのだ。
「復讐の、機会がね」
人を殺そうとした時の、自分達の声に。
「これ、何かわかる?」
奈良は鬼怒川の髪を無造作に引っ張り、その顔を真正面へと引き上げた。
その瞬間鬼怒川の目にとびこんできたのは、今まで自分達の力であったはずのもの。その銃口は、鬼怒川の額をしっかりと捉えていた。
「ひぃっ!?」
「ゴメンね。僕としても女の子を怖がらせるのは忍びないんだけどさ」
そう言って、しかし奈良の表情は全くすまなそうなそれではなく、瞳には僅かの迷いも残されていない。
鬼怒川は、恐怖していた。斉藤に銃を向けられた時とは明らかに違う感覚。死にたくはない、生きたいという渇望。
「ゆ、許して……」
気づけば、鬼怒川はそう口にだしていた。しかし奈良は銃を下ろさない。
ただ冷たい瞳で鬼怒川を見下ろし、小馬鹿にするような口調で呟く。
「きっと塚本も、命乞いはしただろう? それでも鬼怒川さん達は見逃さなかった。……僕が見逃すと思うかい?」
死ぬ寸前の、塚本天満の姿を思いだす。
目の前でララを殺され、このゲームの現実をつきつけられて泣き叫んだ彼女の気持ちが、今の鬼怒川には痛いほどわかった。
どうしようもない絶望、堪えようもない恐怖。助けを求めようにも、斉藤はもういない。
「い、い」
まとまらない思考。すくむ身体。混乱と停滞。
鬼怒川の自制心が崩壊し、肉体が衝動のままに突き動かされるようになるまで時間はかからなかった。
「『い』?」
「いやあぁぁぁぁぁっ!!」
奈良に背を向けて、鬼怒川は走りだした。できるだけ遠くに、僅かな可能性を求めるように。
奈良が構えているのは自分達の武器だったものだ。その威力は、嫌というほどわかっているというのに。奈良が何かを言っていたが、鬼怒川にそれは聞き取れなかった。ただ逃げるのに夢中で、他のことなど考えられるはずがない。
涙で視界がぼやけ、それを袖で拭い――
刹那。
聞きなれた音と共に、背中を激しい痛みが襲う。衝撃で、鬼怒川は前に倒れこんだ。
「がっ……かはっ、……う」
気を失うほどの痛み。しかし鬼怒川は、今度は気を保ち続けた。
歯をくいしばり、痛みか恐怖かそれとも他の何かによって流れる涙を振りきるかのように。少しずつだが鬼怒川は、地面をはいずり前進していた。
「斉、とう……くん」
決して返事をすることのない彼の名を、鬼怒川は呼んだ。
短すぎた二人の時間。人殺しという、結局自分達にとっては意味をなさなかった行為のために無駄したお互いの想い。
「さ……い゛と、う……く」
彼がその命を賭してまで救おうとしてくれた自分の命が、今まさに尽きようとしているのは鬼怒川本人がもっとも理解していた。
けれど、鬼怒川はあがき続ける。少しでも長く、彼の想いを無駄なものにしない様に。
彼が生きている間には、何も返すことができなかったから。
――鬼怒川。
不意に、誰かに呼ばれた様な気がした。
痛む身体をよじらせて、声の方向に振り向く。そこにあるのは一丁の銃。斉藤が、使っていたコルトAR15。
――もう、いいんだ。お前の気持ち、俺にも伝わったから。一緒に、行こう。
ぼんやりとする意識の中で、その声だけは確かに聞こえていて。
鬼怒川は嬉しかった。苦痛が消え去り、その他一切の感覚がぼやけていっても、鬼怒川には不安などなかった。
「ああ゛……う、ん」
行き着く先は、きっと地獄に違いない。あれだけ非道を尽くしてきたのだ、当然の報いだろう。
しかしそれでも、斉藤が一緒なら大丈夫。不思議と、鬼怒川にはそう思えた。
そして再び鳴り響いた銃声は、鬼怒川の耳に届くことはなかったが、奈良の放った銃弾は今度こそ確実に鬼怒川を斉藤と同じモノに変えた。
そしてその絶命の瞬間、鬼怒川は確かに微笑んでいた。
※ ※ ※ ※ ※
「……さて、これからどうしようかな」
足元に転がる鬼怒川だったモノを一瞥し、奈良はその手に握られたコルト AR15を見つめた。
もはや生きることを諦めかけた最中、手に入った力。この力が手に入ったからこそ、愛しい人の敵を討つことができた。
「塚本は死んじゃったし、この島を歩きまわる理由もなくなっちゃった」
ぐるりと辺りを見回すと、転がるのは三つの死体。
この島で生きているのはもう二十人以下というこの状況で、奈良は目的を失っていた。
「……自殺、とか?」
ふと、天満の下へ逝くという選択肢が浮かぶ。
しかし先ほど目の前で苦しんでいた斉藤と鬼怒川の壮絶な最後を見ると、そんな勇気もすぐに消えうせた。
「痛いのは嫌だし」
この島から逃げ出す方法は思いつかない。しかし、このままでは後二日以内に確実に痛い思いをし、死んでしまう。
どうしようかと、奈良は考える。
診療所には斉藤達の荷物があるだろうから、幸いなことに、物資は豊富だ。
生きるために、何をすべきか。ただ逃げ回るだけでは今回のような危険にさらされるかもしれない。
でも、もしもこちらが先手を取れたならどうだろうか。
手にあるのは決定的な力。どこの誰でも、命を奪い去ることのできる道具。
これがあればきっと何でもできる。奈良には、そう思えた。
「ここは一つ、ゲームに優勝とかしてみようかな。……あはっ」
【午後3時〜5時】
【現在位置:I-07】
【奈良健太郎】
[状態]:腹部を激しく打撲。
[道具]:支給品一式(地図1、食料5、水2) 殺虫スプレー(450ml) ロウソク×3 マッチ一箱 突撃ライフル(コルト AR15)/弾数:38発
[行動方針] :力を手にした今、勝ち残るのもありかと積極的に思っている。
[備考]:ハリーを警戒。播磨が吉田山、天王寺を殺し刃物を所持していると思っています。
【鬼怒川綾乃:死亡】 (残り16人)
※斉藤・鬼怒川の荷物は鬼怒川がいた部屋に、結城の荷物は結城の遺体の側に、防弾傘(ほぼ破損)は遺体から離れた場所に放置されていて
【散弾銃(モスバーグM500)残弾0】は結城の遺体のそばにあります。
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