無題






 その家屋の中には、見るからに高価そうな絵画や置物などが幾つも存在していた。大きな暖炉の上には清潔を常に保
たれていたのであろう数々の皿が立て掛けられ、今も窓から差し込む陽光を浴びて鮮やかな装飾を際立たせている。天
井に設置されたシャンデリアは、一寸もその美しさの輝きを損なう事なく、金色の光を降らしていた。床に敷かれた絨
毯にも気品が溢れており、まるで見る物全てが高級品に見える。その豪奢な部屋の中に、一人の男は頭を抱えて座り込
んでいた。

 服装は清潔で高貴な物に見受けられるが、髪の毛は自らの手で掻き回したのか、乱れている。頭を抱える手は小刻み
に震え、青白い顔には生者にあるべき生気が見出せない。翳った瞳に映す物はなく、彼の目の前にはどんなに高値の高
級な品々も、芸術に満ち溢れた絵画の美しい風景も、何一つとして意味を成していなかった。男は、虚ろな瞳を右へ左
へと彷徨わせながら、時折水分の不足によって異常なまでに罅割れた唇を動かして、何事かを呟いている。まるで、生
ける屍のような男は、かつて多くの喜劇と悲劇を世に送り出した偉大な脚本家と讃えられた頃の面影は、寸毫も残って
はいなかった。

「何故……何故私が……。ああ、アン、私に教えてくれ。何故私がこのような場所に居る?」

 頭を抱えたまま、男は更に背を丸くして呟き続ける。最愛の妻の名を呼んでも、答えは返って来ない。刻薄な響きを
持った風が、窓越しに颯と流れるばかりである。男は心持ち痩せこけたように見える頬を、頭に置いていた手を降ろし
ながら引っ掻いた。堅い爪が食い込み、鋭い痛みが頬を刺す。男は、これが夢なのだと思いたかった。
 ヒトラーと名乗る男に、殺し合いを命令されてから、これは夢の中の悲劇なのだと思った。が、頬を引っ掻けば
引っ掻くほどに、刻薄な現実は痛みと共に蘇る。明確な痛みが明確な現実を彼に齎し、それを信じたくないばかりに次
こそはと考え頬を掻く。幾度もその自傷行為は繰り返された。壁の片隅置かれた、年代物の振り子時計が時を刻む音を
鳴らす度に、男の爪は柔らかな頬の肉へと食い込んで、赤く染め上げて行く。最初は蚯蚓腫れ程度の傷が、回を重ねる
内に引き裂かれ、遂には生々しい光をぬらりと放つ血液が、血の涙のように彼の頬を伝う。男の両頬は、既に血に塗れ
ていた。

「何故だ……何故私が……」

 男は最早痛覚の片鱗すら感じてはいなかった。血が滴る頬は見るも凄惨な有様に成り果てている。手は真赤に染まり、
爪には自らの肉の欠片が付着して、時折大きな塊と共に床へと落ちた。男の頭の中には、今にも死ぬ者が見る走馬灯の
ように、過去の出来事が一気に押し返している。自らが成した大業の数々、築き上げた富みや名声、誰よりも高い矜持
――それら全てが、彼の中に舞い戻った。そして、その膨大な情報の数々と今の彼の状況との間に起り得る矛盾が、次
第に男の理性を蝕み始める。少し前までは、自分は穏やかで幸福な暮らしを謳歌していたのに、今では何時殺されると
も解らぬ恐怖の渦中に身を置いている。愛した妻も、二人の娘も、此処には居ない。幸福の反転、不幸の逆流――それ
は、まるで罅だらけの銅像のような現在の男を、完全に破壊し得る物であった。
 銅像に入った罅は次第に広がり、大きな裂け目となって次第にずれて行く。男の精神も同じように、最早正常な思考
を成す事すら出来なくなっていた。あるのは、自分をこのような場所へ強制的に招き入れたヒトラーと云う男への憎し
み、自分を殺そうと狙う他者への恐怖、生きて家族の元へと帰りたいと云う欲望――極端なまでに分裂した男の思考回
路は、次第に狂乱の道へと歩を進める。男はこの時、狂人染みた笑みさえ浮かべていた。

「――悲劇だ。全き悲劇だ。私が書いたどの作品にも勝る陰惨な悲劇だ」

 男は引き攣った笑みを浮かべながら、云う。誰一人として観客の居ない舞台の上で、刻薄な脚本の元に踊らされる役
者のように、男の姿は滑稽であった。その内、悲劇だと繰り返し呟いていた男は、今までの憔悴した様子を見る影も無
くして笑い出した。背を反らせ、大きく口を開き、血走った目を見開いて、見るも醜穢な姿で嗤い、狂った。静かな室
内に醜い嗤い声が木霊する。男に残された感情はこの時、最早誰にも向いては居なかった。
 自分をこのような場所に招き入れたヒトラーと云う男への憎しみも、自分を殺そうと企む他者への恐怖も、家族の元
に帰りたいと願う欲望も、その全ては理不尽な世界への怨恨に収束されたのである。狂気に満ち満ちた表情は既に人間
のそれではない。見る物全てを憎み、この世に創造された全てを憎み、果てには神をも憎んだ。男は人でなくなり、悪
魔と化したのだ。悲劇の主人公の皮は剥がれ、醜く汚らわしい悪魔がその姿を露わにしたのだ。――それは、観客が居
たのなら悲劇にしか見えなかったのであろう。けれども男にとって、それは紛れもなく喜劇だったのである。

「ああ、喜劇だ! 人は殺し合う! 前世でも後世でも変わらぬ世の理だ! ならば私が喜劇の主人公に違いない! 
この悲劇の中に存在する喜劇の中で、最高の役割だ! 何もかもを殺し尽くした時、この物語の終幕が訪れるのだ!」

 男は叫びながら、豪奢な家具を、一つ残らず破壊し始めた。皿は幾つもの破片へと成り果てて、絵画の風景には風穴
が開けられて、男が投げた壺によってシャンデリアは破損した。男は嗤いながら破壊行為を続ける。自分を取り巻く何
もかもが破壊されるまで、それは終わらない。男にとって、物語は始まったばかりであった。全てを殺す物語は、まだ
幕を上げたばかりなのである。男の姿はこれより多くの者に見られるだろう。舞台の中の、滑稽な主人公として。

 やがて、男が全てを破壊し尽くして部屋を飛び出て行くと、白で統一されていた清潔な壁に、赤い文字で四行の詩が
書かれていた。その生々しい文字の光は、血液で書かれた物であるとすぐに知れる。それは男の内に眠る高貴な人間で
あった頃の彼が紡いだ叫びであったのか、また悪魔へと変貌した男の呪詛であったのか知る者は誰一人として居ない。

Good friend, for Jesus' sake forbear,
 To dig the dust enclosed here.
 Blest be the man that spares these stones,
 And cursed be he that moves my bones!
 ――この石に触れざる者に幸あれ わが骨を動かしたる者に呪いあれ!

 悪魔へと成り果て、自身の名さえ忘れた男のかつての名は、ウィリアム・シェイクスピアと云った。




【シェイクスピア】
[状態]健康(発狂)
[装備]機関銃(AK-47)
[道具]支給品一式
[思考]
1.何もかも殺し尽くす。
2.正常な思考は不可能。
※引退して少し経ったくらいの参戦。



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