無題






 島の南端、波が引いては寄せてを繰り返す浜辺を眺めながら、一人の男が佇んでいる。潮の匂いを孕んだ風に、髪の
毛を靡かせながら遠くの水平線を見詰める姿には何処となく哀愁が漂っていて、覇気のようなものは存在していな
かった。
 この島に自分が居る理由は理解していた。あのヒトラーと云う者の声をその耳に聞き取る事は出来なかったが、手記
の手紙により、この島に送られてから知った。が、この男はそれを見ても、何一つ取り乱す事なく、またその瞳に怒り
の炎を灯すでもなく、無感情に髪を捨ててしまった。支給された武器も見ておらず、名簿ですら目を通してはいない。
凡そ生き残る気が寸毫も見えぬこの男が何をしたいのか、それを知る者は誰一人として居ないだろう。
 その彼が、陽光を受けて燦然と輝く水平線に目を向けるのを止めて、初めて行動を見せた。――彼は浜辺の砂の上に
腰を下ろすと、おもむろに鞄の中から紙とペンを取っていた。このペンは、彼に支給された、到底武器と称す事の出来
ない物であった。だが、彼にそれを知る由はない。ただ、鞄の中身を見てみたらペンが入っていただけの事である。

 男は考える暇もなく、ペンを動かして行く。一切の滞りもなく、まるでそう書かれる事が運命だったかのように、
ペンは紙面の上を流れて行った。その最中、今まで生気を感じさせなかった男の瞳の奥に、沸々と燃え上がるような、
情熱の焔が滾っていた。解放される事なく、狭い彼の中で猛然と揺れるその焔は、彼の表情に生気を蘇らせ、彼の手に
獅子奮迅の如く力を漲らせている。その姿は鬼のような禍々しさと、神の神聖さのどちらをも、醸し出していた。
 ――やがて、男はペンを落とした。波が幾度同じ動きを単調に繰り返したいたのか、日は随分と傾いていた。一心に
紙面の上にペンを滑らした男の手元には、音符が敷き詰められている。それによって、男がしていた行為が作曲で
あったのだと知れた。――何時からか、男の隣には見知らぬ男が立っていた。

「曲か」

 見知らぬ男は、そう云って初めて自分の方へと目を向けた男に視線を合わせた。紙を片手に座っている男の瞳に生気
は無い。あれ程激しく燃えていた焔の影も残してはいない。そこには意識が判然としているのかも知れぬ男が、茫然と
座っているだけである。彼の問いに、座っている男は何も答えず、黙って自分が使っていたのとは別の紙と使っていた
ペンを差し出した。それを受け取って、怪訝な眼差しになった男は首を傾げたが、座っている男が耳を指先で示して首
を振ったのを見て、耳を患っていると云う事実を解釈すると、先刻の問いと同じ内容を紙に書いてペンと共に手渡した。

 紙を受け取った男は、それを見るなり同じ紙にまたペンを滑らせて、すぐにそれを渡した。そこにはそうだ≠ニ
一言だけ書かれている。紙を渡された男は、そうか、と誰にも聞こえはしないであろう呟きを漏らすと、その場に
座った。そして、先刻と同じように紙とペンを受け取ると、文字を書き始めた。

君の武器はなんだ
解らない。恐らくそれだろう
ペンが武器とは、あの男も酷な事をする
どうでも構わない。私はこれを書き上げたら死ぬつもりだった
して、その曲は書き終えているのか
書き終えている
題名は
運命
由来は
運命が扉を叩く音だ。人など敵わぬ力を以て、扉を叩く音だ
ならば、我々はその運命によって抉じ開けられた扉の中に入ってしまった訳だ

 それを受け取った男は、暫くペンを走らせた。先のように短い文字が並ぶのではなく、今度は長い文が紙の上に紡が
れる。それを待つ男も、何を云うでもなく、不評を漏らすでもなく、ただぼんやりと海を見詰めているだけだった。
 暫しの時間を要して、紙が渡される。男は、その一文字一文字を咀嚼するように、心中で読み始めた。

私は運命に屈しなかった。耳が聞こえずとも曲を書き続けた。だが、それも今日で意味を無くす。君の云う通り、
抉じ開けられた扉の中に無理やり引き摺り込まれたのだ。是非も無いままに。耳が聞こえぬ者がこの戦いを制すはず
もない。後ろに立たれれば、ナイフで頸動脈を切られて死ぬ。罠を仕掛けられれば、回避も叶わない。私は生きなが
ら、此処で死んでいるのだ。今まで運命に打ち勝ったと思っていたが、此処に来て更に強い運命が現れた。最早生き
る道など無い

 男は、思わず吹き出した。理由など無かった。ただ吹き出したかったから吹き出したのである。隣に座る男は何も云
わない。気分を害した様子も無ければ、他の感情も窺えない。男は笑った。己の身を危険に晒すと同義であるにも関わ
らず
、大きな声で笑った。幸いその声を聞く者は居なかったが、隣りに座る男にも聞こえていなかった。
 ――滑稽だ。男は思う。どうしようもなく滑稽であった。まるで道化師とパントマイマーのようだと男は考えた。
そうして、その気分を損なわぬ内に、男は文字を書き始めた。

すると、以前運命に打ち勝てなかった君が此処で出会った運命には敗れると云うのか
そうだ。耳を患ってから音楽に生きるのは苦痛だった。だが、それでも耐え得る物だった。今回はそうは行かない。
私に死ぬ以外の選択肢は与えられていないのだ。この運命に打ち勝てと云うのなら、超能力でも無ければ叶わない
私は耳も聞こえるし、目も見える健康な身体を持っているが、容易く殺される
君もこの運命に抗うような真似はしないと考えているのか
そうではない。だが、先刻君が云った事は私にも通ずる。後ろに立たれれば、誰であろうとも首を裂かれる。罠を
仕掛けられれば、誰かが掛かる。何も君だけの話じゃない。誰もがその可能性を持っている
私は、その可能性が他人よりも大きいのだ。無論死にたい訳ではない。音楽に生きる者が、他者の手によって命を
落とすなど私は願わない。願う事なら、音楽に生き続け、音楽に死にたいと思うが、それは叶わないのだ
人は多くを願うが、我々に必要な物はごく僅かだ。人生は短く、人間の運命には限りがあるのだから。ならば、人の
願いの中で殺すだの死ぬだのと云う物は、最も小さき物だ。君はそんな物に人生を捧げるのか。私からしてみれば、死
よりも、殺すよりも、君の願いは大きな物だ。そうして必要だ。ならばその方が良いに決まっている
その為に必要な物が、無いと云うのだ
私がそれだ。耳が聞こえぬのなら、私が聞こう。それだけで私達は他の者より有利になる。一人より二人が強いのは
当然であろう。君はそれでも先刻と同じ事を繰り返すのか

 その紙を受け取った男は、驚いたように隣の男を見遣った。殺し合うのが規則であるこの島で、自分に協力すると云
う。結局は一人しか生き残れぬこの島で協力と云う行為がどれほど愚かしいものなのか、解らない訳ではなかった。男
は隣の男と出会う前よりも、心なしか生気のある表情でペンを滑らせる。瞳に僅かな光が隠れているようであった。

何故そうまでしようと思ったのか。君が云った事が真実であるならば、私は君を狂人だと疑うだろう

 その答えを紙に書く前に、男は笑った。柔らかな微笑である。それを見た男は、この男が狂人なのだと知った。その
答えにはこう書いてある。それは紛れもなく、彼に生きる道を示す物であり、また彼が行きたいと願った道であった。

私はただ、君が作った曲を聴きたいだけだ。丁度、君の云う運命に以前敗れてしまったものだから

 彼には愛した女性が居た。決して手が届かなくとも、彼の愛は途絶えなかったが、その女性の許嫁には勝てるはずも
なかった。運命と云わざるを得ない存在に、彼は消沈したが、それでも諦めずに自分の愛を彼女に伝え続けたが、やは
りその力は運命に及ばず、彼は自ら手を引いた。その折りにこの島に連れて来られ、一人の見知らぬ男と話している。
その男は運命に打ち勝ったと云った。けれども、今度は負けると云った。――彼はこの男に甚だ興味を持った。
 向ける先は違くとも、自分と同じように一途な想いを持ったこの男の耳になりたいと、心から思っていた。

 その男が、紙を差し出す。名前は≠ニ問いが書かれた紙である。彼は自分の名を手早く書いて、君はと付け足して
から男に手渡す。そして、彼らは互いの名を打ち明けあった。夜は近付いている。真赤な夕陽が海に沈んで行く。薄暮
の色と、宵の色が混じって濁った空が頭上にある。彼らは申し合わせたように立ち上がり、薄暗くなった森の中へと姿
を消して行った。

 人影が一切消えてから暫く経った浜辺で引いては寄せる波が、ざあと鳴っている。辺りは闇に包まれた。明かりが無
ければ地面さえ見る事は難しいだろう。その中で、一枚の紙切れが風に弄ばれていた。名前は≠ニ云う問いで始めら
れた後に、二人分の名前らしき文字が綴られている。一番最初の問いに書かれた名前ともう一つが、順にこうあった。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 ――やがて、颯と吹いた風がその紙を、一寸先も見えぬ闇が広がる海へと、吹き飛ばして行った。

【ベートーベン】
[状態]健康(聴覚は無し)
[装備]ペンとメモ帳
[道具]支給品一式
[思考]
生き延びる為に闘うが極力戦いは避ける。

【ゲーテ】
[状態]健康
[装備]猟銃
[道具]支給品一式
[思考]
企画者側を何とかする。仲間をなるべく集めたい。



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