無題






 その男は絶望の淵にいた。
 力は山を抜き気は世を蓋うと嘯いた彼は、共に生死を誓った僅かな手勢を失った事を嘆いていた。
 刀折れ矢尽き、手傷を負った彼の士気は低い。四方より祖国の歌が聞こえた時に、彼は生きる事を諦めていたのだ。
 かつて威光のからの凋落の寂しさは、哀しさは、甚だしい。
 虞美人は虞美人草となり、愛馬は名も知らぬ亭長に丁重に譲った。誰一人、馬一人として彼に付き従う者はいない。
 しかし、堕ちたと言えども万人の敵ならんとした万夫不当の彼に敵する者もない。
 彼の意思は一つ。出来るだけ勇猛に戦い華々しく散り、力及ばずして滅ぶのではなく天が彼を滅ぼすのだという事を証明するだけだ。
 彼は破れた訳ではない。股くぐりの匹夫や嫂と姦通した者など敵するにあわたず、成り上がり者など論ずるに能わず、彼を滅ぼそうとしているのは天意に他ならない。
 そう。前に敵はなく、彼の後ろに敵はなく、彼は天下に名を轟かせた西楚の覇王なのだ。
 ――剣は一人の敵、学ぶに足らず。我、万人の敵たらん。
 旗揚げした時の熱い情熱が身体を駆け巡り始める。
 先んずれば人を制す。降伏を認めず、秦兵10万を生き埋めにした気概が蘇る。天下を縦横に切り裂いた彼に怯懦はない。
 そう、彼が挑むのは天である。天が我を滅ぼすのなら、その是非を問わん。
 天道、是か非か。我が覇道、是か非か。
 支給品として与えられた異形の槍、御手杵を抜き放つ。巨大な穂先は彼にとって馴染み深い物ではないが、その重さがしっくりとする。
 振り回せば枯れ木が如きであり、風が切り裂かれてヒュンヒュンと唸る。
「亜父よ、鴻門の轍は踏まぬ」
 玉けつを挙げて決断を促した、骸骨を乞うた白髪の老臣を思い出す。その最後の諫言、豎子語るに足らず、が耳に蘇りもする。
「必死に生き、戦い、そして死ぬべし」
 昔、江東の子弟八千と共に江を渡れども、今は誰もない。散っていった彼らを慰める者は彼しかいない。
 彼の壮絶な生き様を天下に知らしめる事だけがそれを成し遂げるのだ。
 兵に勝敗あり。されど勝敗はなし。
 死地にありて死を決し、輝きを取り戻した大丈夫たる男子、西楚の覇王、項羽の最後の戦いの狼煙が上がった。

 余談ではあるが舜は重瞳子であり、項羽も重瞳子であるという。彼は英雄足り得るだろうか。

【項羽 一日目・深夜D−4】
[状態]疲弊せども士気は天を覆う。
[装備]御手杵
[道具]基本支給品



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