無題






 やけに背の高い老人が、腰を曲げて家を喪った犬のように立ち尽くしていた。
 仰ぐように天に向かい、潤んだ瞳から涙を溢れ流しているが、決してそれを拭おうとはしない。
「由は義を貫き、淵は赤貧に果てた。仁に生きた我にが出来ようか」
 老いた彼の目に映るのは周公旦の姿であるが、問うても何一つ答えが帰ってこない。
 長年に渡る流浪の生活、道を解いても理解されぬ心労は彼の身体を蝕んでいる。
「日暮れて道遠し。残された時の幾漠たるや、我知らず」
 老いた彼に残された時間は少ない。否、もはやないだろう。しかし、死に行く老骨であっても彼は諦める事は出来なかった。
 それは殺し合いを生き伸びる、と言うことではなく失われた聖人の道を広げる事に他ならない。
 全てを捨てて世捨て人の様に陰棲するのでも、世を儚み石を抱いて汨羅に身を投げる事は出来ない。
 ただただ道を全うする。それだけが彼の望みだ。
 他の小人女人はすべからく醜く争うだろう。それは人の行いでなく畜生の行いに過ぎない。
 せめて自分はだけは人として、君子として死ぬべきなのだろう。それが自分の矜持であると、彼は考える。
 伯夷叔斉の兄弟は周の粟を食べるのを恥として首陽山にて果てた。ならば、と彼は自分も支給品の食料を食べるべきではない、とデイパックを投げ捨てた。
 木の根本に腰を降ろすと様々な想いが巡るが、彼はそれは未練であると切り捨てた。
 思い残す事があるならば、それは後の事である。死後、誰か自分を継ぐ者があるだろうか。それだけが気掛かりだ。
 冠が落ちた。彼は木が李でない事を確認すると、安心して冠を正した。
 殺されて干し肉にされた愛弟子の顔が思い浮かぶ。
「――由よ、君子は李下に冠を正さず。君子死す時は冠を正す――」
 人知れずして巨星墜ちる。
 孔夫子は道を全うしたが天寿を全う出来ずに、悲憤して果てた。

【一日目・深夜 孔子死亡】
【残り35人】




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