生ける姫、死せる姫






鬱蒼と茂る森の中を、小さな少女が駆けていた。
野遊びには向かない服装に、足まで伸びた金糸の髪。
日焼けなどとは無縁であったであろう白い肌。
全ての構成要素が風景に馴染んでおらず、傍から見れば違和感しか感じられない。
尤も、こんな獣道に傍観者などいるはずもないのだが。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

少女は息を切らせながらも、必死になって走り続けていく。
整備されていない野道に慣れていないのだろう。
湿った落ち葉や露出した木の根に足を取られかけながら、歩くような速度で走っている。
前髪は汗で額に貼りつき、学校指定のパンプスは泥に汚れ、瞳には恐慌の色が色濃く浮かぶ。
どこかを目指しているのではなく、走り続けることで恐怖から逃れようとしているかのようだ。
しかし、そんな無茶な走りがいつまでも続くはずがない。
やがて少女――アンナ・ヴェンツェルローニは立ち止まり、木の幹にもたれかかって呼吸を整え始めた。
今までずっと走っていたせいか、白い頬が淡く上気している。
突如としてこの森へ落とされたのが十分ほど前。
それからずっとアンナは走り続けていた。
理由など改めて述べるまでもあるまい。

「人が、赤い血が……」

アンナは湿った土に片膝を突いた。
せり上がってくる酸味を堪えて、口をきつく噤む。

「アツシ……私をひとりにするなんて、絶対に許さないんだから……!」

きつい口調で呟くアンナだったが、その表情は暗く沈んでいた。
見知らぬ場所へ連れてこられた困惑。
目の前で人が殺害された衝撃。
自分もああなってしまうのではという恐怖。
それら全てが混ざり合い、言いようのない感情のうねりと化してアンナを責め立てる。
今にも折れてしまいそうなか細い心を支えているのは、たった一人の少年の存在だった。
平凡で、特別なところなんて何も見当たらない、どこにでもいるような高校生。
王位継承者であるアンナとは比較すら成立し得ない相手だ。
しかし確かに、その少年の存在は、アンナの心をギリギリのところで崩壊から逃れさせていた。
アツシに会いたい――
アンナはそんな純粋な気持ちで思考を満たし、恐怖心から目を逸らそうとした。
だが、現実はそこまで甘くはないようだ。
森の奥、梢から注ぐ月明かりに照らされる藪が、がさりと揺れた。
アンナは悲鳴を飲み込み、木の陰に隠れて様子を伺おうとする。
それはさながら幽鬼のようであった。
藪を割って姿を現した老人は、虚ろな視線を彷徨わせながらアンナの方へと近付いてくる。
皺だらけの肌に生気はなく、艶のない白髪を振り乱すその様は、もはや人間のものとは思えない。
一歩踏み出すたびに、腰から提げた異様に長い筒か管のような装飾が地面を擦り、湿った音を立てる。
身にまとった白い装束は、赤黒い染みでひどく汚れているようだ。
数メートルもなかった距離を、老人は覚束ない足取りでゆっくりと詰めていく。
老人がアンナのいるところへ近付くに連れて、暗くてよく見えなかった輪郭が明確になってくる。
その姿を直視した瞬間、アンナの心を支える理性のひとつが、音を立てて砕けた。

「――――あ」

赤黒い染みとは、乾きかけた血糊に他ならない。
老人の肉体の其処彼処には刀傷が刻まれ、管のような装飾は、一際大きな腹部の傷から零れていた。
そう、なんということはない。
腹圧によって傷から押し出された臓物を引きずっているだけだったのだ。
アンナは、自分が絶叫を上げていることにすら気付けなかった。


 − − −


ソレは走り去っていく人影に興味も払わず、ただひたすらに歩き続けていた。
死体としか思えない姿で動くその様は、まさに幽鬼のよう。

――否、ソレは紛れもなく幽鬼そのものである。

死体を肉体とし、死体から死体へ乗り継いでいく怨霊。
人はソレを黒冠(くろかむり)と呼んだ。

黒冠は機能を喪失した片足を引きずりながら、森の中を進んでいく。
死体とはいえ、壊れた部分はまともに動かなくなる。
筋を切られれば指は動かず、大腿骨を折られては歩くに障りが出てしまう。
いかに死体を操る力があったとしても、当の死体が壊れていては意味が無い。

「……憎、し」

ボロボロの口から漏れた呟きは、一体誰に向けられたものなのか。
己をこうも傷つけた剣士に対してか。
それともこんな場所へ連れてきた輩に対してか。
或いは、遠い昔に裏切られた憎き相手に対してか。
その解は、きっと黒冠自身も知りはしないのだろう。
少女が逃げ去ってからどれほど歩いたのか。
黒冠は鬱蒼と茂る木々の間で、はたと立ち止まった。
焦点の合わない眼を足元に向け、何か値踏みをするように視線を這わせていく。
黒冠は、死体に取り憑く亡霊である。
しかしそれは道楽や気まぐれでしていることではない。
死体の脳髄に収まっていなければ、黒冠の脆弱な霊体はその存在を維持していられないのだ。
そしてこの老いた夜盗の肉体は、既に限界に近付いている。
いずれ歩くどころか這い進むことすら叶わなくなり、野晒しになって脳髄まで朽ち果てることだろう。
故に黒冠は新たな依り代を求めて歩き彷徨っていたのだ。
もし仮に、この身体に走ることができる程度の機能が残されていたなら、先ほどの少女を殺めて新鮮な死体を手に入れていたところだ。
だがそれは叶わぬ相談だ。
この地獄のような舞台に連れてこられる直前、黒冠が宿る肉体は、名も知らぬ剣士との戦いで深く傷けられていた。
片足を引きずっているのも、はらわたを垂らしているのもそのせいだ。
しかし一刻も早く新たな器を手に入れなければならない状況にありながら、黒冠は歩みを止めていた。

「お、お……」

土と落ち葉の積もった地面に、どさりと膝を突く。
これを僥倖と呼ばず何というのか。
黒冠の目の前には若い女の死体が横たわっていた。
女であることも、銀色の髪という非人間的な――黒冠の生きた時代においては――容貌も気になるところではない。
外傷は針によって穿たれた小さな穴が幾つかある程度で、体温すら残っていそうなほどに新鮮な死体なのだ。
 これ以上を望むのは強欲というものだ。
黒冠はゆっくりと首を下げ、頭を女の額に近付ける。
白髪頭の内側から黒い靄が溢れ、今は見る影もない女の美貌へと染み込んでいく。
これこそが黒冠の真の姿。
死後もなお恨みを抱き、死体を乗り継いではどす黒く穢れていった人間の魂。
もはや誰を恨んでいたのかすら忘却し、手段であったはずの霊的延命こそが目的と化した哀れな亡霊だ。
やがて老人の頭から湧き水のごとく流れ出ていた霊体が途切れる。

――――びくん!

女の身体が雷に打たれたかのように跳ねる。
それと同時に、朽ちかけた老夜盗の亡骸が前のめりに倒れこんだ。

「……なんだ、存外に悪くない」

先ほどまでとは別物のように明朗な声。
女、いや、新たな器を得た黒冠は、今まで使っていた死肉を邪魔そうに押し退けると、おもむろに立ち上がった。
喉と口腔に刺さっていた細長い針を抜き取り、口に溜まっていた血を吐き捨てる。
この死体を発見したときは、奇妙な装束を着込んだだけの女子だと思っていた。
それがどうだ。
こうも理想的に鍛え込まれた身体など、武門の男でもなければお目にかかれないだろう。
眼球が潰されているのは残念だが、百年に及ぶ存在期間において、盲人の身体に収まっていた時期が無いわけではない。
何より、それを差し引いても高い能力を持つ器なのだ。
より良い屍骸が見つかるまでの繋ぎとしては充分過ぎる価値がある。

「エスティ……アイン……グラスデン……これが姓名か?
 波斯国かどこかの言葉のようだが……」

黒冠は銀糸の髪に付いた汚れを指で削ぎ落としながら呟いた。
霊体が女の頭蓋の奥まで染み込んでいくに従って、脳髄に刻まれていた記憶が読み取れるようになってくる。
今はまだ新しい記憶しか見えないが、充分に時間が経てば本人に成り代わることも不可能ではない。

光を失った中での、今際の瞬間。
女を死に至らしめた術師。
そして、黒冠も目にしていた、皇帝の威容――
突然、黒冠は左の胸を鷲掴みにした。
その口元は三日月のように歪み、地獄の悪鬼すらも髣髴とさせた。

「ああ――胸が疼く。この肢体の種なのだ。さぞ素晴らしき血肉を湛えておるのだろう……!」

帝国皇帝、アーク・ヌル・グラスデン。
その懐刀、テイル・D・ブラドー。
エスティ・アイン・グラスデンの脳髄は、黒冠に彼らの力の凄まじさを余すとこなく伝えていた。
瞼を見開き、月を仰ぐ。
視力は既に失われているが、黒冠が持つ霊体ならではの霊感と、エスティの鍛え抜かれた感覚があれば補って尚余りある。

「いいだろう、その身体、貰い受ける――!」

月影の下、黒冠は高らかに宣誓した。
それは、黒冠なる魔性を知る者からすれば異様な光景であったことだろう。
黒冠とは強大な妖怪である鬼姫を畏れ、京の外れへと逃れたのだとされている。
そんなモノが明らかな強者である皇帝の殺害を意識するのであろうか。
理由があるとすれば、恐らくは、エスティの意志の残滓。
透明な水に朱を垂らせば瞬く間に広がっていくように、希薄な黒冠の自我において、生者の心は鮮やか過ぎる。
更にいえば、エスティを殺めた術師の手際もまた鮮やか過ぎた。
この器は絶命を自覚しているのかすら怪しいのだ。
戦いを嗜好するエスティの性が黒冠を染めてしまっても不思議はない。
喉を鳴らして笑いながら、黒冠は踵を返す。
牛革のブーツが老夜盗の頭を踏み、熟れた柿のように砕き潰した。


 − − −


「アツシ……」

もう何度、その名を呼んだことだろう。
動く死体からがむしゃらに逃げ続け、いつの間にか辿り着いたこの廃墟。
アンナは何に使われていたのか分からない部屋の隅で、膝を抱えて小さく縮こまっていた。
体力以上に走り回ったせいで、息をするたびに鉄の味が口中に広がる。
肋骨や脇腹が鈍く痛んで泣きたくなってしまう。
これがもし、朝が来れば醒める悪夢であったらどんなに良かったか。
安っぽい目覚ましの音で目を覚まして、二度寝して。
メイドのルクレツィアにリビングへ引っ張られるんだ。
そしたらサナコが嫌味なことを言うけど、いつものように聞き流して。
それで、朝ごはんを並べながら、アツシがおはようって言ってくれるんだ――
澄んだ瞳からぽろぽろと涙を流して、アンナは静かに嗚咽を漏らしていた。

「助けて……」


【一日目・深夜/7-I 森の中央】
【黒冠@陰陽魔道世界】
【状態】両目失明、喉と口腔に小さな傷跡
【装備】長楊枝(2/30)
【道具】支給品一式、不明支給品1〜3
【思考】
1:皇帝かティルの肉体を手に入れる
2:そのためにも勝ち残る

※現在はエスティ・アイン・グラスデン@ファンタジー的異世界の肉体を使用しています



【一日目・深夜/6-I 廃墟・室内】
【アンナ・ヴェンツェルローニ@日常+】
【状態】健康、疲労
【装備】なし
【道具】支給品一式、不明支給品1〜3
【思考】
1:淳に会いたい
2:死にたくない



【名前】黒冠(くろかむり)
【性別】元は男性(人格上の性別は既に消滅)
【年齢】発生から100年前後
【職業】怨霊
【身体的特徴】依り代に依存。霊体は黒くて不定形の人型をしている
【性格】基本的に陰気で、興味を抱いた物事以外には無気力なのがベース
    ただし亡霊故の自我の薄さから、依り代の生前の人格や意志、記憶の影響をかなり受けてしまう
【趣味】強くて新しい肉体を探すこと
【特技】寄り代に合わせた演技
【経歴】京都の外れで殺戮を重ねてきた悪霊
【好きなもの・こと】強い能力を持つ死体
【苦手なもの・こと】魔性を討てる人間、自分より格上の魔性
【特殊能力】
人間の死体に憑依して自分の肉体にできる
 ・一度肉体を変えると三刻(六時間)経過するまで次の身体に移れない
 ・霊体としては脆く、寄り代なしでは数分と持たず消滅
 ・厳密には脳髄に憑依するため、脳が酷く損壊した死体には憑依していられない
 ・ロワ中では首輪の爆発=消滅
【出身世界】陰陽魔道世界
【備考】
原型は政争に破れ非業の死を遂げた貴族
復讐の為に死体を乗り継いで存在し続けたのだが、長い流転の果てに精神が磨耗し、
より好ましい依り代を求めて彷徨うだけの怨霊と化してしまった
最終的には好みの"人間"を殺害して"死体"に変えてまでして理想の依り代を得ようとし、
長きに渡って殺しを繰り返していたところを、京に帰還した草柳重兵衛に斃された
当時は老いた夜盗が依り代であり、その状態で参戦
なお、京都ではなくその外れを根城としていたのは、圧倒的に格上である鬼姫を畏れていたため

【名前】アンナ・ヴェンツェルローニ
【性別】女
【年齢】17
【職業】某国の王女→高校生
【身体的特徴】低身長幼児体型、足下近くまで伸びた金髪、サファイアのように澄んだ瞳
【性格】高飛車で傲岸不遜。いつ何時も自己中心的だが、根はいい奴らしい
【趣味】敦弄り
【特技】エスケープ
【経歴】王位を継承するのが嫌で、単身生まれ育った日本へやってきた
【好きなもの・こと】麦茶、敦
【苦手なもの・こと】紅茶(飽きたから)、沙南子
【特殊能力】エスケープスキルは非常に高い。ヘリを操縦できる
【出身世界】日常+
【備考】
日本へ逃れてきたが、結局自分の家があった場所を見つけられず、たまたま近くを通りかかった敦に保護される。
敦に懐き、結局彼の家に居候することになる。
ちなみに、学校への転入は学校自体を買収して成功させた。



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