2匹の獣






 伊藤乃絵美は軽やかに森を歩いていた。
 先刻まで、木々の闇に、鳥の声に、流れる血に
おびえていたのが馬鹿らしい。
「お兄ちゃんの所へ早く帰らなくちゃ」
 くすりと笑みを浮かべる。そう、早く帰って
兄の胸に飛び込むのだ、そしてずっと抱いていた
淡い思いを言葉にしよう。
 兄妹だからと悩んでいた、自分はなんて臆病だった
のだろう。世界は誰も自分を否定なんてしては
いなかったのだ。
「菜織ちゃんにも、真奈美ちゃんにも負けない」
 そう、負けるはずが無い。兄と一番近い自分が
ずっと一緒にいるのが当然のはずだ。
 それでも邪魔をするなら、少し私が強いところを見せて
やろう。体が弱くて、いつも守られてばかりいた自分だけど
もう平気だ。
「だって私はお兄ちゃんの為にこんなに強くなれる」
 乃絵美の右手に握られたナイフから血が転々と滴っている。
いや、それどころか彼女の服装はひどい有様だった。
胸元が破れスカートには泥がついている。そして右手のナイフ
だけでなくボロボロの服にも乃絵美の物では無い血が
付いていた。
 はだけた彼女の胸元には一筋の引っかき傷のようなものが
付いていた。
 この場に誰かがいれば気が付いたかもしれない。その傷は
まるで果物が熟しきって腐り落ちたような濃厚な甘い香りを
漂わせていた事に……。
 男の荒い呼吸音が森に響く。
「くそっ、あんな小娘に!」
 わき腹を切り裂いた傷は、熱を持ち勝沼紳一を苦しめた。
幸い、ナイフの刃は内臓へは届かなかったが、鎮痛薬も
無い現状での行動は傷の痛みにより大きな制約を受けるだろう。
 特に、脇の筋肉を使う走る、飛ぶといった行動は激痛を
伴うに違いない。
 森をさまよっていたリボンの少女をナイフで脅して押し倒した
所までは紳一の計画通りだった。長い刑務所での禁欲を、少女の
肉体を蹂躙する事で解消しようとしたのだ。
 数多の少女達を犯し、壊してきた紳一にとって目の前の少女は
刃物を見せれば怯えてすくむ、玩具のように扱いやすい類の
獲物のはずだった。
 胸元をはだけさせた瞬間、少女の胸元に爪で引っかいたような傷を
見つけた。その途端、少女はバネが弾けたかのように紳一を
蹴り上げ、取り落としたナイフを奪うとためらいも無く刺したのだ。
 立ち上がり、紳一を見下ろした少女の目は最悪の犯罪者と呼ばれた
彼ですら凍りつく異様な視線だった。
「くそっ、くそっ!」
 ボウガンを杖代わりに立ち上がる。ナイフこそ少女に奪われたが
倉庫から奪ってきた武器はまだ有る。
「殺してやる、奪ってやる、犯してやる!」
 少女への得体の知れない恐怖が、紳一の冷静さを奪ってゆき、
傷の痛みが理性を磨耗させる。
 そこには、計算機の如く犯罪を遂行した勝沼紳一の姿はもう無かった。
ただの凶悪な獣が野に放たれたのだ。
「悪趣味だ」
 その様子を眺めていた葉月は傍らの蔵女に聞こえるように
言葉を吐き捨てた。
「ほう?だが、これで饗宴は面白くなるぞ?主催者もむやみに
能力者を狩人にする必要が無くなる。2人の狩人の追加。
バランスを考えれば悪くない結果だとは思うがのう」
 蔵女が着物の袖で口元を隠しながら、童の様に笑う。
「あの娘の恋心を弄び、狂わせただろう。それが気に入らないと
言ってるんだ!」
 葉月が思わず声を荒げた。乃絵美の胸の傷、それは蔵女が
森を彷徨う彼女にその爪でつけた傷だった。
 蔵女の右手の人差し指の赤き爪でつけた傷は、その人の
心を徐々に腐らせてゆく。発露されぬ想いや、心の傷が
精神を蝕んでゆき変質させていくのだ。そして最後には果たされた
想いを幻と見ながら赤い雪となり消えてゆく。
 恐らく乃絵美は兄への想いを果たすために、帰る手段を模索
するに違いない。正気のように行動し、狂気を爆弾の様に
抱いているのだ。
「あの娘は、先刻の下衆な男よりも危険かもしれないな」
 葉月は手元の刀を無意識に握り締めた。暴走を止めるのも自分達の
役目だ。火を点けては消して回る滑稽な消防士としか言いようが無い。
「行こう」
 葉月は一言告げて、きびすを返す。その後を蔵女の下駄の音が
からころと追いかけていった。

【伊藤乃絵美  状態:狂気(見た目や言動は正常)  所持品ナイフ】
【勝沼紳一 状態:怪我(腹部)、錯乱   所持品:ボウガンその他 】
【蔵女 状態:良(能力制限)  所持品(能力):赤い爪】
【葉月 状態:良(能力制限)  所持品:日本刀】



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