冷たい雨に打たれて






それは、一瞬の出来事だった。

「大輔ちゃん!」
こちらに気付いた天音が、明らかに悲鳴を上げる。
その視線は俺の背後を見ていた。

振り返る。
そこに何もない空間から現れるあの姿。
音もなく、先刻、俺の脚を抉ったあの爪が振り上げられる。
・・・やられた。
そう、思った。

だが――。

「いやあっ!!」
恋の叫びに我に返った俺の目の前には、悠姉さんがいた。
クモ女の爪に、その華奢な身体を貫かれながら――。
「姉さん!!」
「だい・・・すけ・・・ちゃ――」
言い終えるより早く、悠姉さんの身体が残りの足によって振り飛ばされる。
「私はね・・・網にかかった獲物を逃すなんて事はしないの。」
鮮血に染まった爪を満足気に眺めながら女は言った。
「そうそう、自己紹介がまだだったわね・・・。比良坂初音、まあ、好きに呼んで頂戴。」
「・・・ふざけやがって・・・っ!」
「あら、怒った顔もなかなか素敵よ?残念ね。能力保有者ならケルヴァンと行けば生きていられたのに。」
でも・・・と、初音は妖艶な笑みを浮かべ、
「貴方みたいな贄が出来るなんて私は幸せだわ・・・。」
そういって爪をカチカチと鳴らす。
「能力保有者・・・天音か。」
俺の脳裏に先刻の台詞が思い浮かんだ。

――安心なさい。用があるのはそこの小さい子だけ。

「残念。ところがあの時もう一人増えちゃったのよ。あの紫の子もそう・・・。」
「藍ちゃんまで・・・。」
なんてことだ、まさか狙われる人間が増えてしまったとは・・・。
(大輔さん。)
「百合奈先輩・・・。」
ふと隣に来ていた百合奈先輩が耳打ちする。
(今のままでは篠宮先生が・・・。)
俺は無言で頷いた。
(私が・・・囮になりますから、そのうちに・・・)
馬鹿な。
俺は首を振って、初音を睨み付ける。
「その役目は残念だが・・・・・・俺がやるっ!!」
目の前の敵を倒す。
その事だけに意識を集中し、足の痛みを消す。
一気に初音に詰め寄った。
「馬鹿な子ね。」
初音の横薙ぎの一撃を屈んでかわす。
「先輩!走れっ!!」
「はい!」
いつもの何倍もの速さで俊敏に駆ける先輩に俺は一瞬驚いた。
そこに隙が生まれる。
「よそ見はダメよ?」
「ぐっ!!」
今度は屈んだところに足の一撃が襲ってくる。
ギリギリのところで腕をクロスにしてガードするも、直撃は避けたがその威力は半端じゃない。
はしる激痛。おそらくヒビの数箇所は入っただろう。
「死になさい・・・。」
上からの打ち下ろしの爪を左に回避。
「お前は何がしたいんだっ!」
みぞおちの辺りを狙って蹴りこむ。
「ぐっ!?」
一旦、お互いに間合いを取って対峙する。
「私は自分の贄が欲しいの・・・。この世界に貴方たちを呼んだのは私じゃない。私はその手伝いをしただけよ・・・。」
服についた土を払い落としながら初音は至極あっさりと言った。
「貴方たちも帰りたいなら逃げてばかりじゃ話にならないわっ!」
意外にも今度は人の足で前蹴りを出してくる。
「お前たちを倒す!帰れる方法がこれしかないのなら、そうするしか他に方法はないっ!!」
蹴りをブロックし、今度は喉元を殴りつけた。
「くううっ!」
「退けっ!お前と遊んでいられるほど時間がないんだ!!」
「そう・・・そうなの。」
俯いた状態から、初音は俺にクモの足を叩きつけてくる。
「っ!ぐあっ!!」
ガードした腕が軋み、腕の中で骨が悲鳴をあげる。
想像以上の威力に俺は、1メートル程後方に弾き飛ばされた。
「うふふふ・・・。」
笑いながら初音はバックステップで足を身体に巻きつかせ、一気に解き放つ。
(まずいっ!!)
「先輩!後ろっ!!」
不敵な笑みを浮かべて今度は悠姉さんのところに行った百合奈先輩に向けて足を振るう。
「く・・・あ・・・っ。」
その足は百合奈先輩を一撃で昏倒させるには十分過ぎるほどに強かった。
「さあ、どうするの?王子様。」
優しい口調からは想像も出来ないほど冷たい目つきだった。
俺たちと倒れた二人をちょうど二分する形で立っているだけに動きが取れない。
(くそっ!こうしてるうちに悠姉さんは・・・っ!!)
視界の隅でうっすら見える悠姉さんは、それでも判るほど流血していた。
このままでは死ぬのも時間の問題だ。
(何とか・・・退かせるだけでも・・・っ!)
バシャバシャと水飛沫の中を恋が駆けてきたのはその時だった。
「アンタッ!絶対に許さないっ!!」
いつも俺に向かって放っている跳び蹴りの何倍も速く、恋は動いた。
「何っ!?」
迫りくる露にギラついた足を難なく飛び越え、その勢いで初音の肩口を思い切り蹴り飛ばす。
「れぇぇぇぇぇんっ!!」
俺は同時に走り出し、地面に落ちていた石を拾い上げ、初音の右側頭部を殴りつけた。
ガツンという激しい衝撃。
「ぎゃああっ!!」
「あうっ!?」
確かな手応えは暴れまわる初音の頭部の出血を見れば一目瞭然だった。
「恋!!」
暴れている初音に弾かれて、恋は藍ちゃんの近くまで吹き飛んでいた。
「ひっ・・・!!」
藍ちゃんが恋の無残な姿に凍り付く。
恋の右腕が――なかった。
「あ・・・ああ・・・」
眼球がせわしく動き、そして、止まる。

「きゃあああああああああああっ!!」
恋が気絶した瞬間、藍ちゃんに異変が起こった。
藍ちゃんの周囲の空気が歪み、集中する。
そして――!
「いやああああああっ!!」
悲鳴と共に蓄積された空気が爆音と共に一気に解き放たれた。
「しまった!覚醒をっ!?」
右の顔半分を手で押さえながら初音が叫ぶ。
「ここまでやられて――ただで済むと思わないでっ!!」
半狂乱の初音は藍ちゃんに飛び掛る。
「藍ちゃんっ!!」
・・・心配をよそに。
顔面に向かって突き出された巨大な爪を、紙一重で避けると藍ちゃんは今まで見たこともないくらいの・・・文字通り”目にも留まらぬ”速さで俺が与えた傷の上に肘を振り下ろす。
「ぐっ!あああああっ!!」
渾身の一撃がかわされた事で初音は動揺を隠せないようだった。
だが・・・。
「チ、チィィィィッ!!お前ならっ!!」
「キャアアアーッ!!」

「天音――!!」

――間に合うか・・・?

――振りかぶられた、爪。
――天音の恐怖に歪んだ、顔。
そして・・・。

・・・天音の悲鳴。

「くっ・・・!どこまでも貴様は・・・っ!!」
「ふっ、ふふっ・・・。残念だったな・・・。」
不思議なもので明らかに死ぬと解ると人間、意外に余裕がある。
奇しくも悠姉さんと同じ、腹部を貫く一撃。
それも、人を庇って、だ。
「何故だ!何故そうまでして邪魔をするっ!?」
ああ・・・。コイツは・・・。
何故か知らないが、俺は初音が可哀相に思えた。
「・・・自分の命、張ってでも、守らなきゃならない、もんってのが・・・あるんだよ・・・」
「馬鹿な・・・。」
俺の腹から爪が抜け、おびただしい量の血が流れ出る。
「い、いや・・・・・・。」
その光景を目の前にして天音が絶句する。
「お前には・・・解る事は、ないんだろう、な・・・永遠に・・・。」
「だ、黙れええぇっ!」

「やめてぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
平手打ちの形で俺の顔を切り飛ばそうとした初音。
だが、天音が叫んだのと同時に光が弾け、初音は派手に吹き飛ばされた。
「はあっ・・・はあっ!」
「なんという・・・あの小娘まで覚醒させてしまうなんて・・・・・・。」
狼狽した声で初音が呻く。
「大輔ちゃん!大輔ちゃんっ!!」
身体を引きずるようにして撤退する初音を見ながら倒れこんだ俺に、天音が駆け寄る。
「はは・・・悪い、な・・・これだけやって・・・倒せない、なんて・・・・・・。」
涙でグシャグシャのまま天音は首をブンブン振った。
「天音・・・悠・・・姉さん、は・・・?」
「・・・・・・。」
今度は力なく、首を振る。
そうか・・・・・・。
「お姉、ちゃん・・・・・・。ごめんね・・・。」
熱いモノが、頬を伝った。
「ダメだよ・・・大輔ちゃんまで・・・いなくなっちゃ、ヤだよ・・・。」
天音の膝枕で倒れている俺の顔に、天音の涙がこぼれ落ちた。
「天音・・・・・・生き、るんだ・・・」
返事はない。しかし、俺は続けた。
「生きて・・・戻るんだ・・・。みんなのところ、に・・・。おばさんも、おじさんも・・・」
天音と目が合った。
降り出した雨が、天音の心情を俺に暗に伝えているような気がした。
「みんな、待ってる・・・」
「大輔ちゃんだって、帰ってこなかったらダメだもんっ!みんなみんな待ってるもんっ!!」
それは、心に熱い感情を呼び覚ます。
「天音、親父や・・・みんなに・・・よろしく、な・・・。」
もう、俺は生きて帰れない。
その事実が今になって恐怖に変わる。
「戻り・・・たかった・・・な・・・」
「戻るんだもん!ダメ!大輔ちゃんっ!!ダメだよぉ・・・っ!」
泣き顔は、悠姉さんにしか見せたことがなかった。
大好きな、お姉ちゃん・・・。
そして、また、大好きな・・・。
「あま・・・ね・・・。」
もう、感覚のない右手を、天音の頬に添える。
「ずっと・・・すまなかった・・・。」
「えっ・・・?」
いきなり謝られた天音は目を見開く。
「ずっと・・・気付いてた・・・。お前の、気持ち・・・に・・・。」
「あ・・・。」
「でも、失うことが・・・怖かった・・・。大事な、ものを・・・失うことに・・・怯えてた・・・・・・。」
天音の涙が腕を伝うが、既に何も解らない。
泣いているのか、雨のせいか、天音の顔も霞んだままだった。
「俺は・・・弱くて・・・。何も、昔から、変わら・・・なくて・・・」
「もう、いいよ・・・しゃべっちゃダメ・・・」
首を振っているのだけが、なんとなく分った。
「天音・・・お前は、強い、な・・・。だか、ら・・・」
意識が徐々に遠のいていく。
今更、信じても、願っても、遅いかもしれない。
だけど、神様・・・今だけ、お願いです・・・。

最後まで――告げたい・・・。

「生きて・・・くれ・・・俺の、分まで、幸せに――。」
「違う!大輔ちゃんがいなかったら、私は幸せになんてなれないよっ!!」
こんな時にならないと、言えない自分が嫌だな・・・天音が、泣いてるじゃないか・・・。
「大輔ちゃん!目を開けてぇっ!!」
最後の力を振り絞って、泣き叫ぶ天音の頭を自分のところへ引き寄せる。
「あ・・・ま、ね・・・・・・」

「愛・・・し・・・て・・・――」

――最後に聞こえたのは、愛しい人の声。
――願わくは、泣き声でなければ・・・よかったのに・・・。

【麻生 大輔:死亡 篠宮 悠:死亡】
【桜塚 恋:状態×(右腕欠損) 君影 百合奈:状態△】
【橘 天音・鷺ノ宮 藍:魔力覚醒】



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