二つの影 そして二つの影
「はぁ……はぁ……」
森の中に二つの影。
道なき道を縫い、精一杯の力で駆け抜ける。
「……よし。このくらい離れればもう大丈夫だろう」
魔獣キマイラと遭遇し、必死で逃げ惑うこと十数分。桜井舞人と八重樫つばさは、ここでようやく減速する。
「……助かったな。誰かは知らないが、あの怪物の気を引いてくれなきゃ、絶対に助からなかった」
「……同感」
歩きながら八重樫はうなずく。
「でも……鉄砲の音がした。……ここは本当に日本じゃないんだな」
舞人がそう呟き、二人の間に沈黙が続いた。
息切れの収まらない舞人は、運動もせずに過ごした日々に舌打ちする。
八重樫は運動神経の良さが幸いしたのだろう。不得意な長距離ではあったが、舞人程の疲れはなかった。
「……少し休む? 顔色悪いけど?」
「ぷ、ぷじゃけるなよ!? この世界がうらやむ美男子、舞人くんの顔の、どこが悪いだと!? この腐女子め! 名誉毀損とかで訴えてやる!」
「いや、誰もうらやまないから」
……これだけ冗談が言えるなら大丈夫。
そう判断すると八重樫は、歩く速さを少し上げる。あの化け物が追ってくる可能性がないわけではない、そう八重樫は考えた。
舞人も、ひいこら言いながらついていく。
――再び沈黙が訪れた。
それから数分程歩いたところ、前方に人らしき影が二つ見えた。
「ぶらぁああああ!」
大きい方の影が何か叫ぶ。
「……人!? お〜い! そこのお二人さ〜ん!」
「お……おい!」
ここに来てから初めて目にした人間である。いつもは冷静な八重樫も、舞人の声も聞かずに、二つの影に走り寄る。
……しかし。
「ぶるぉおおお!」
走り寄る八重樫を振り向き、叫び声を上げて突進してくるその姿は、人間ではなかった。
「神速」
この化け物――ミノタウロスと呼ぼう――のでかい体格から見て、力はあっても速さはないと見る。
御神の技は速さに重きを置く。怪力であろうとは言え、のろまな牛の化け物ごときに遅れをはずもない。
……一気に片をつける。
怪物の呼吸に合わせ、俺は飛針(ひばり)を投擲すると、一気に間合いを詰める。
飛針は的確に相手の目に向かうが、化け物の太い左腕は、ぎりぎりで目をかばう。
もちろん、今のはすきを作るためのフェイクにすぎない。
再び体勢を整えたミノタウロス。駆け寄った俺が目の間にいるのに気付き、慌てて斧を斜め上に振りかぶろうとする、が――
遅い。
(御神流奥義……)
「薙旋(なぎつむじ)!」
一足刀の間合いから一気に抜刀。
旋風を巻き起こす煌きが化け物の胴を襲う。
「……!?」
しかし、渾身の力を込めた四連撃は、ミノタウロスの黒々とした肌にかすり傷を与える程度に留まった。
(く……!)
化け物は両手でしっかりと握った斧を、高々と上げている。
俺は避けるよりも受けるほうを選んだ。
そこから放たれた一撃は、俺の予想以上の速さで襲い掛かる。
咄嗟に交差させた二本の小太刀を、斧の軌道に合わせ斬撃に備える。
ガキィイーン!
大砲による砲撃を直接受けたような衝撃が俺を襲う。
勢い余った斧は、小太刀もろとも俺の体を吹き飛ばした。
肋骨が何本か折れたことが、はっきりとわかった。
三メートル程宙を舞った俺は、受身を取ることもできずに地面を転がる。
止まった後も衝撃の余韻が留まり続ける体を、起き上がらせることはままならなかった。
鋭い痛みと鈍い痛みが、壮絶な協奏曲を奏でる。
……相手の化け物は、その様相に違わぬ膂力を持っていた。
まともにやりあって人間が勝てる相手ではない。
(……しかたがない)
俺は、御神流奥義『神速』を発動させる。
大量に流れ込む知覚情報の波に後押しされ、周りの動きが止まった。――いや、止まって見えるというべきか。
色覚こそ失うものの、モノクロの世界だからといって相手を見失うことは、ない。
起き上がった俺は再び化け物に肉迫する。……相手は先程の位置から俺に詰め寄ろうとしたまま、動きを失していた。
かくいう俺も、極限まで高められた知覚に動作がついていかず、まるで水中を走っているような気分になる。
しかしスローモーションとは言え、今の俺の速さは先程までの比ではない。
俺は間合いに入ると、渾身の力で相手の両の目を抉り取る。
まずはこれで視覚を奪った。
次に斧を持つ右手をこれでもかという程切りつける。
さすがに鋼鉄のような腕を切り落とすことはできなかったが、これで自由に振り回すことはできないだろう。
……と、ここで身体に限界が訪れる。
負傷した状態での『神速』は、予想以上の負荷を俺に残したままその効果に終わりを告げる。
俺は疲れを憶え、倒れ伏した。
「ぶらぁああああ!」
唐突に叫び声を上げるミノタウロス。
今のうちに逃げるが得策だろう。
倒すことはできなかったが、両目がつぶれたこいつはもはや標的を捉えられまい。
俺は体に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がり、その場を離れようとする。
しかし――
「覚醒」
「……〜い! そこのお二人さ〜ん!」
若い女性の声が聞こえた。
……何だ?
見ると、苦しむ化け物の向こう側から、人影がかけてくるのが見えた。
女性の声を聞いたミノタウロスは振り返り、そちらへと走り去る。
(まずい……!)
俺も慌てて追いかけようとするが、折れた肋骨と『神速』による肉体疲労で、体が思うように動かない。
「おい! 逃げろ!」
声なら届くかと大声で叫んでみる。
しかしその声は届いたのかどうか。女はただ立ち止まったに過ぎなかった。
本当に負傷しているのだろうか。化け物はすさまじい速さで女性へと詰め寄る。
「八重樫! 逃げろ!」
女の背後から現れた男もまた、逃げるよう叫ぶ。
だが……遅かった。
ザシュッ!
大きく振りかぶった斧は女の胴を一文字に薙ぎ――
「……えっ?」
女は地に倒れ伏した。
「八重樫ーーーっ!」
男の叫び声がこだまする。
……間に合わなかった。
ミノタウロスは手ごたえを感じて昂揚したのか、天に向かって吠えた。
男は化け物がすぐそばにいるにも関わらず、女の許へ駆け寄った。
「おい! 八重樫! 死ぬな! 八重樫っ!」
「……っ…………」
女の声は声にならなかった。
なおも怪物は叫ぶ。
「おい! お前も早く逃げろ!」
男だけでもと思い叫んだが、男は動く気配も見せなかった。
「……もう、いい。喋るな、八重樫……」
男は涙交じりで呟く。
「……ぃ……き…………」
「……ああ。俺は生きるさ……。お前の分まで生きて、帰ってやる……!」
俺は軽く舌打ちをする。
男からは全く闘気が感じられない。俺が助けに行かなければ、あの男もすぐに同じところへ逝ってしまうだろう。
「………………」
「やえ……つばさ……? おい! つばさ! つばさぁぁああああ!」
……残念ながら女は息絶えたようだ。
……おそらく、何も告げられずに逝ってしまったのだろう。
俺は二人の心中を察し、胸を締め付けられる。
……男だけでも助けなくては。
しかし、いかんせん距離がある。いや、十メートル足らずなのだが、今の俺では五秒は掛かりそうだ。
(頼む……。間に合ってくれ)
血溜まりから膝を起こした男は、ゆっくりと立ち上がる。
そして――
「うわあああぁぁぁあああああああああああ!!!!」
とてつもない叫び声を上げた。
こちらの耳まで痛くなる程だ。
……?
……男の気配が、変わった。
【高町恭也 状態○→△(肋骨骨折)】
【桜井舞人 状態○→◎(魔力覚醒……?)】
【八重樫つばさ 状態○→−(死亡)】
【ミノタウロス 状態○→△(両目負傷、右手軽症)
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