ほんの僅かな休息を






「酷い傷……」
 岸に上がった九郎の全身をみた霧は、そんな事をポツリと呟いた。
 擦り切れた服と、その隙間から見える大小の傷口。
 下半身はまだ川の中に入っている。
 その下半身からは、赤い液体が今も流れ出しており、川の水を紅く染めていた。
「た、助けなきゃ……!」
 霧はそう呟いてから、九郎に近づいていく、が、霧が九郎の身体に手を伸ばしたところで躊躇い、その手の動きを止める。
「この傷口、何かに切られたような……。もしかして、この人も……」
 殺人鬼、陵辱者、そして美希の下に現れた剣を持った耳の長い人の姿をした化け物。
 この島で、霧は今まで普通の人間に出会った事が無かった。
 その為の戸惑い、果たして目の前のこの男も、その化け物達と同じ人種なのではないか。
 霧は手を伸ばしたまま、九郎をどうするか、決めあぐねていた。
「ァ、アル……」
 九郎が呟く。
 アル・アジフを、大切なモノを求めるように。
 その言葉の切れ端から感じた九郎の感情、たかが名前、しかしそこには確実に『何か』が含まれていた。
「アル? ねぇ、その人はどうしたの!」
 霧は思わず九郎に対し、大声で問い掛けた。
 しかし九郎は、その名前を呟いたきり、完全に気を失っている。
 そこで霧はある事を思い出す。
 つい先ほどまでの、まだ一日も経っていないにも関わらず、既に何日も過ぎたかのようにすら感じるある出来事を。
「この人は私と同じ……」
 大切なモノを目の前で失い、挙句の果てに川の流れに身を投じ、深い傷を負った者達。
「助けよう」
 霧はそう一度だけ呟くと、九郎の身体にその手を伸ばした。
 川の上流、先ほどまで霧達がいた場所からそう離れていない切り立った崖の足元にある大きな洞窟。
 正確にいえば、切り立った崖の岩が霧達の頭上を覆い、結果的に洞窟のようになっている場所を、霧は見つけた。
 すぐさま霧は九郎の身体を休ませようと、その場所に身を潜め、九郎の身体を比較的川の水で濡れていない場所を探し、そこの上に寝かせる。
「ふふ……。私が落ちた場所が、今こうやって逆に私を助けてくれるなんて……」
 自虐的に霧が笑いながら、横にいる九郎に目を向けた。
 九郎は時折呻き声のようなものを発してはいるが、目を覚ますような気配は無い。
「身体が冷たい……」
 マギウスとなった影響か、或いはアルと交わした契約の力かは判らないが、傷口から流れ出していた血は少しほど前に止まった。
 しかし、傷ついた身体で川の水にその身を浸した影響による体温の低下は、いかんともしがたい。
 そして……。
「でもどうしよう……。温めるものが……」
 今、霧の元にある物といえば、霧が着ている服と、ボウガン。
 九郎が目を覚ましていたのなら、或いは、霧は知らないが、もといた世界で同じ時間を何度も過ごしていた美希が傍にいれば、まだどうにか出来たかもしれない。
 しかし、サバイバル経験の無い霧が、何も無い場所で火を起こす事ができるわけも無く。
 結果、霧は途方にくれていた。
「こんな時、どうすれば……、あっ!」
 そんな時、霧の頭の中にあるひらめきが思い浮かんだ。
 それは、どこかで読んだ小説の一場面だったのかもしれないし、或いはテレビドラマの一シーンだったかもしれない。
「でも、だって……」
 思わず九郎の身体をマジマジと見つめる。
 体格は良く、筋肉質な九郎の、『男』の身体を。
 男嫌いな霧にとって、頭に浮かんだひらめきというものは、およそ実現不可能な行為だった。
 しかし。
「このままじゃ、この人は死んでしまう」
 それは推測ではなく、確実な未来。
 現に九郎の身体はだんだんと限界に近づいている、否、既に限界を超えていると言っていい。
 霧は考える。
 このままにしていても、もしかすれば九郎の身体の体調が一気に回復してどうにかなるかもしれない、と。
 しかし、その思いは一瞬にして霧散する。
「そんなわけ、無いじゃない……!」
 現実的な考えをする霧だからこそ、現在の九郎がどんな状態なのか、そして放っておけばどうなるか、その事を完璧に理解していた。
 弱っているものは助け、弱き者を挫こうとする人間を自分の手で助けようとする。
 そんな『佐倉霧』という人間が、見殺しという選択肢を選ぶ事は無かった。
「……よし!」
 そして、霧は決断した。
 霧は立ち上がると、ゆっくりと自分の着ているブラウスに向かって、その手を伸ばした。



       むに、という妙な感覚を右手から感じるのと、九郎が死の淵から蘇ったのはほぼ同時の事だった。
「あ、ぅん……?」
 痛みと、傷を負った事による熱によって、ぼんやりとした頭のまま九郎は何気なく右の掌を動かす。
 むに、むに。
 布のような感触の下に微かな、しかし確実な『何か』の感触を感じる。
「何だ、コレ……?」
 その微かな感触を確かめるかのように、何度も右手を動かした。
 その時、その手の下にある『何か』がピクリと動いた。
「たくっ……。一体なんだっていうん」
 半裸の少女が突然九郎の目に飛び込んできた。
「……え?」
 自分の右手の先にあるのはスポーツブラ。
 それに腹部のある一部分を隠す為に存在する小さな布切れ。
「……え?」
 九郎はもう一度呟く。
 思考が固まる、それに影響を受けたのか、身体機能まで停止したかのような錯覚まで覚えた。
「……ぁあ! 眼を、覚ましたんですね! 良かっ……」
 そんな時、九郎の傍で眠っていた少女、霧が目を覚ました。
 運が悪い事に。
 初めは九郎が目を覚ました事に喜び、安堵の言葉を投げ掛けようとしたが、その途中でその九郎の手が、現在どこにあるかという事に気がつく。
 むに。
 霧の左胸に置かれた九郎の手がもう一度動くのと、霧の放った盛大な張り手が九郎の腹部に当たったのは、ほぼ同時の事だった。

   パチ、パチ。
 炎がはぜる音が、霧と九郎の間から聞こえてくる。
 眼を覚ました九郎が、混乱し、暴れる霧を何とか説得し、彼女に集めてきてもらった枯れ木に火をつけたのが、およそ三十分ほど前。
 その間、九郎がいくら霧に向かって声を掛けても、彼女はまったくその言葉に反応を返さなかった。
「……なぁ」
 九郎が霧に向かって、何度目かとなる呼び声を掛ける。
「何ですか?」
 呼び掛ける事数度、ようやく霧がその口を開く。
 しかし答える霧の口調は固い。
「本当に悪かった……。ぼーっとしていて、マジで判らなかったんだって!」
「……その事はもういいです。何度も何度もそうやって同じ事を繰り返して。貴方は同じ事しかいえない、所謂『馬鹿』なんですか?」
 馬鹿、の部分を強調して、霧が無表情のまま呟く。
「……ああ。俺は馬鹿かもしれないな。いや、馬鹿だ。大馬鹿だよ、本当に……」
 想像していたのとは違う九郎の反応に、霧は思わず表情を変えた。
「……怒らないんですね。見ず知らずの他人が、貴方を貶す言葉を吐いたっていうのに」
「本当の事だからな」
 九郎は苦笑いを浮かべながらポツリと呟いた。
「一つ聞いてもいいですか? 貴方の傷、何かに切られたみたいでした。……貴方も人殺しなんですか? 誰かと戦って、そして」
「俺は人を殺さない」
 誰かを殺したのか、そう続けようとした霧の言葉を遮って、九郎がそれまでのとは違う口調で、はっきりとそう答えた。
「俺が断つのは魔だけだ。人は絶対に殺さない。もう何度も言ってきた言葉で、その度に信じてもらう事が出来なかった言葉だけどな。俺はそれでも繰り返す、何度でもな。何せ俺は……馬鹿、だからな」
 自嘲的なその言葉を聞いた霧は、シュンとしながら俯いて、一言だけ「ごめんなさい」と呟いた。
「謝る事なんて何も無い。あんたは何も悪くない、というか、俺を助けてくれたんだ。何を言っても構わないし、俺は助けてもらって、その恩を仇で返すなんて事は絶対にしたくないしな」
 霧は俯いていた顔を上げて九郎の顔を見つめる。
「じゃあ、聞かせてくれますか? 貴方が何故、あんな川の中にいたのか、その理由を」
 九郎は一瞬だけ悲しそうな表情になるが、すぐにそれを笑みに変え、一言「いいぜ」と答えた。


  「……とまあ、俺はそうやって信じていた奴に裏切られたって訳だな。傑作だろ? 一緒に戦おう、なんて向こうから言い寄ってきて、実際戦う時になって、未熟だから出直せ、だとよ。本当、笑っちまうよな……」
 パチン、と、洞窟の中に乾いた音が響く。
「そんなのっ! そんな事で裏切られたなんて、間違っても私に言わないで下さい!」
 霧は九郎の話を聞き終えると同時にそんな言葉を叫びながら、九郎の頬を叩いた。
「私は美希から、親友だと思っていた人から、その手で崖の上から突き落とされました! 貴方のは、そのアルっていう人が、その戦いから貴方を逃そうとする為にした事じゃないですか! それを……。裏切り? 本気でそう思っているんですか?」
「思っていないさ」
「思ってい……! え?」
 九郎は笑いながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「思っていないさ。俺はアルに裏切られたなんて思っちゃいないよ」
「ならどうして……」
 問い詰める霧を制し、九郎は言葉を続ける。
「俺が話をしている時に、俺もあんたの話を聞いた。驚くほど同じような話だった。突然訳の判らない化け物に襲われて、信じていた奴の手で崖の上から突き落とされた。だけどさ」
 九郎は霧に向かって、真剣なまなざしを向ける。
「その結果は? 友達が化け物の目的だとすれば、少なくとも殺されやしない。俺の方も同じようなもんだ。命の保証はする、なんて事を言っていたし、まだ俺はアルとの繋がりを感じている。つまり、俺達の相方は、どちらもまだ死んじゃいないって事だ」
「だからって……。崖から落されたんですよ!」
 九郎はその言葉を聞くと、ハハハ、と大きな笑い声を上げた。
「確かに俺達は崖から落ちて、そしてこうやって助かった。本当、お互い頑丈だよな」
「こんな時に冗談を言わないで下さい!」
「冗談じゃないさ」
 声質が変わる。
 いままでは飄々としてどこか掴みようのない雰囲気だけの九郎の声に、包み込むような優しさが加わる。
「結果として、俺達は生きている。もしあんたがあの場にいたら、そこであんたは死んでいて、俺がアルの元に残っていたら、今頃俺達は、あの蜘蛛野郎の餌になっていたかもしれない、だろ?」
「そ、それは……」
 霧はうろたえながらも反論の言葉を捜す。
「俺が思う『裏切り』ってのはな。裏切り行為をされて本当に命を失った時、その場合だけだと思うんだよ。もし俺が崖から落ちて死んでいたら、その時はあの古本娘の事を恨んで、あいつの枕元にでも立っていたと思うけどな」
「死んだらって……、そんなの」
「俺達は生きている。生きている限り文句だって言えるし……、助けてやる事だってできる! ……違うか?」
 九郎は優しく問い掛ける。
「……違い……ません」
「だろ?」
 九郎は霧の問いに満足して、笑った。
「生きてもう一度出会えたら、その時は。あんたがさっき俺にしたように、その友達の顔に一発大きいのをかましてやればいいさ」
「あ、あれは!」
 顔を赤くしながら、霧が九郎の方から目をそらす。
「ハハ。まあ、ともかく、俺はあんたに手を貸すよ」
「え、でも、貴方にはアルって人が……?」
 九郎はその問いにはすぐに答えずに、そのままゆっくりと火の傍に近寄るとゴロリと寝転んだ。
「俺は今度こそ間違いを犯さない。目の前に困っている奴がいるってのに、それを見捨ててアルを助けになんていったら、間違いなく俺は殺されちまうよ。しかも、それは自業自得で、恨む事すら出来やしない。大丈夫、あの古本娘はしぶといからそう簡単に死にはしない」
 その言葉は、偶然にもアルが崖から落ちた九郎に対して向けた言葉と同じものだった。
「……ありがとう……ございます」
 その瞳に涙を浮かべながら、霧はそう呟いた。
 そして、少しの沈黙の後、おもむろに九郎が口を開いた。
「……悪いな、話をしていてちょっと疲れたみたいだ。少し眠らせてくれ」
「え、あ! は、はい……」
 そのままの体勢で、炎の向こうで座っている霧に向かって声を掛ける。
 霧はその言葉を聞くと、少し緊張したような面持ちになり、拙いながらも気配を消そうと試みる。
 その霧の行動がおかしくて、九郎が思わず霧に向かって冗談を投げ掛ける。
「出来れば、もう一回裸で添い寝を……」
 その言葉に対する返答は、無機質な霧の声。
「射殺しますよ?」
「俺が全面的に悪かったです、すいませんです、ごめんなさい」
 九郎は傍からみれば、情けなくすら思えるような声を上げ、霧に向かって謝罪した。
(……あの事はやっぱ黙っていた方が良さそうだな。吹雪の中じゃあるまいし、別に裸で抱き合わなくても充分温まる事が出来た……、って事を)
 最後にそんなくだらない事を考えながら、九郎はもう一度眠りについた。

 それは後に待ち受ける戦いの為の、ほんの僅かな休息の時間だった。

【佐倉霧@CROSS†CHANEL(フライングシャイン) :狩 状態:△ 所持品: ボウガン 矢の数は二本(撃ったら拾うので矢自体はなくならない、二発目を撃つ時には装填準備が必要)】
【大十字九郎@斬魔大聖デモンベイン(ニトロプラス) 状: △ (とりあえず、死ぬ事は無い)
回転式拳銃(リボルバー)『イタクァ』、自動式拳銃(フルオート)『クトゥグア』、残り弾数不明(それぞれ13発、15発以下】



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