魔獣と銃声
「……というわけで、我が人生の導き人、アドルフ=ヒトラー様は我ら優秀なゲルマン民族の生存圏の拡大の重要性を説き――」
「いや、あんたゲルマンじゃないでしょうが」
「う、うるさい! そんな細かいこと気にしてたら蚊も殺せんわ!」
森の中、私とこの桜井舞人は緊張感のかけらもなくのほほんと知的会話に没頭していた。
……正直言って、今自分がいるこの場所がどこなのかわからないという不安が消えたわけではない。
でも、この天性の馬鹿と話をしていると、なぜか安心感も増していく。
「……と、このような理由でヒトラー様は生粋のベジタリアンだったのであります。
また今日その名を世界に轟かせる、キム=ジョンイル将軍様同様、酒もたばこも飲まず――」
その時だった。
ふいに私は、背後から私達の後をゆっくりとつける何かがいることに気づいた。
その足音が、靴で地面をする音とも違うことから、そいつが人間じゃないことにも気づいた。
「舞人くん……!」
私は、声を荒げないよう、気をつけながらも、緊迫した雰囲気がこの馬鹿にもわかるよう声をかけた。
追跡者に悟られないよう、顔は正面に向けたまま。
「……ベルリンが陥落する直前、彼は毒を飲んで自らの命を絶ったわけだが――」
……こいつは、駄目だ。
仕方なく、舞人の顔を横からきっとにらみつける。
……その額は、汗でびっしょりだった。髪の毛からも玉になった汗が滴っている。
……違う。こいつは、ずっと前から、とっくに気づいていたんだ。逃げ出す機会を推し量りながら。
「……八重樫……」
突然、さっきとは打って変わり、こいつにしては真面目すぎる程の声を発した。
「気づいてると思うが、何かが俺達をつけている」
私は正面に向き直り、黙ってうなずく。
「俺がおとりになる……って言いたいところだが、俺もまだ死にたくない」
かっこ悪ッ!
「いいか? 俺が合図を出したら一緒に全力で駆け出すんだ。後ろは振り返るな」
私はまたうなずく。
しばらく黙々と歩き続ける。
……と、急に舞人が立ち止まる。どんよりと曇った空を仰ぎ見た。
「あ〜。今日は本当にいい天気だ。こんな日は大空に飛び出したくなるな」
……なんだ? これが合図なのか?
私が走り出そうかどうしようか考えあぐねいていると、
「あ! UFO!」
思わずいつものノリでツッコミそうになるが……これが合図だ。……たぶん。
「今だ! 八重樫! 逃げろ!」
その声を聞き、私は慌てて逃げ出す。
走り出す瞬間、私は追跡者の姿かたちを、少しでも見ようと、後ろを振り向いた。
舞人が指差すその方向を、恐らくUFOを探してきょろきょろとするその振る舞いに、またもやツッコミを入れそうになるが、
その化け物の様態は、そんな考えを一瞬で吹き飛ばすほどのものだった。
……獅子そのままの頭部。山羊(やぎ)の胴体。長く伸びる蛇の尾――
ゲームやアニメでお馴染みの、合成獣キマイラ――
まさしくその、キマイラだった。
「な……!」
私は逃げることも忘れ、ただただ呆然としていた。
……とんでもない世界に来てしまったことが、ようやく身をもって知らされた気分だった。
「馬鹿! 逃げるんだよ!」
舞人の声が耳朶を撃ち、私は我に返った。
改めて逃げようとしたその矢先、その化け物は視線をこちらに戻した。
……UFOが飛んでいる、という嘘にだまされたせいだろうか?(人語を解するかは不明だが)その目には明らかな敵意が見て取れた。
動物園で見たライオンがそうしていたように、低いうなり声をあげる。
……まずい。完全にぷっつんモードだ。
「いくぞ!」
舞人が私の腕を掴み、容赦ない力で引っ張った。
場合が場合だけに文句をいうこともできず、私は必死に足を動かした。
しかし、いかな俊足を誇るこの自慢の足も、震えていては使い物にならない。
他人の足で走っているような感覚だった。
……ちらと後ろを振り返る。
私達と化け物との距離は、既に十メートル程にまで縮まっていた。
このままじゃ、あと数秒で捕まるだろう。
私はいつ食べられてもいいように、自分がパーフェクトな女として生まれたことを心の底から懺悔していた。
……頭が良くてごめんなさい。……かわいすぎてごめんなさい。……ええと、それから……。
ドーン!
さすがにもう冗談はよそうとしたその刹那。
何か運動会の徒競走でも始まりそうな音がなった。
……銃声だった。
振り返ると、首筋から赤い血を足らしたキマイラが、憎々しげに横手の林の中をにらんでいた。
……何? 正義の味方?
考えている暇はない。
この間に、できるだけ遠くへ――
少しだけ震えが収まった足に鞭を入れ、私はかつてないほどの速さで舞人を追い抜いて行った。
誰だか知らないけど、助けてくれてありがとう。
死なない程度にがんばって。
……全く知らない異世界の中、正義の味方が現れた
それだけで希望が見え始め、私は自然に笑みを浮かべていた……
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