世田谷アンダーグラウンド
世田谷の地下を走る下水道を、長靴を履き、手には懐中電灯を持ってゆっくり歩く一人の男がいた。名簿では部長と呼ばれている男だ。
さっき地上に出たときに仕入れた新聞の日付を見ると、殺し合いが始まってからすでに六日が経過したらしい。
ということはこの暗くて腐臭が漂い、湿度も皮膚を溶かさんばかりに高い空洞に身を隠してからすでに六日が経ったということらしい。
中間管理職であるという点を除けば単なる会社員にすぎなかった彼が、突然見知らぬ男に呼び出されて殺し合いを強制されるという、人類史上前代未聞と言っていいだろう事態に巻き込まれてすでにそれだけの時間が経過した。
殺し合いの首謀者が自分の部下の義父であるなどとは露知らぬこの男、この町に在住していないにも関わらず町から出ることを禁じられてしまったのでまずは潜伏場所を探さなければいけなかった。
真っ先に考えたのは部下であるマスオの家を頼ることだが、こんな非常事態に巻き込まれている時に赤の他人をいい顔をして家に泊める人間はいまい。
マスオ自信は部下としても人間としても信頼に足る男だが、彼の家族までそうとは言い切れない。
そこで思いついた身の隠し場所は、足元にあったマンホールの下――この地下空洞だった。
殺し合いに積極的に加担する人間が出現するとしても、最初はこんな場所までは目が回らないだろう。
それに風雨もしのげるし、暗いのと臭いのさえ我慢すればそれなりにいい隠れ家だといえた。
心配だった食料は、最初から自分のサイフを持たされていたし、地上に出て銀行で自分の口座を見てみると一ヶ月普通の生活はができるほどの金額が振り込まれていた。
その金でどこかのアパートを借りるという手もあったが、この町で唯一の不動産屋も殺し合いに参加していると聞いてそれはやめることにした。
毎日数時間だけ地上に出ては食料や必需品を調達し、情報を収集するという異常な生活にも慣れてきたが、会話相手がいないことは堪えた。
部下であるマスオとアナゴはどうしているだろう。放送を聴いた限りではまだ命は落としていないらしいが、家のあるマスオはまだしも自分と同じ境遇であるアナゴなどはどうしているのか。
そもそもなんでこんなワケのわからないことになってしまったのか。
暗闇にいて何もやることが無いとなると色んな考えが頭をよぎってしまうが、その全ては徒労に終わった。
やがて何度めかの曲がり角を曲がったとき、それまでもずっと聞こえていた水音に混じって妙な音がするのに気付いた。
それは誰かの足音だった。
この地下道で誰かと鉢合わせるのは初めてだ。懐中電灯を消そうかとも思ったが、位置から考えて相手はすでに自分の存在に気付いているだろう。
怪しまれる素振りをするのは逆効果というものだ。
相手も同じようなことを考えているのか、明らかにこちらに気付いているようだったが、一歩一歩ゆっくりと歩み寄ってきた。部長も同じようにした。
やがて、足音の主は犬だとわかった。
「やあ」
先に声を発したのは犬のほうだった。
「これはどうも」
自分で言っていながら、サラリーマンくさいセリフだなと苦笑した。
「どうだ、ここはお互い何も見なかったことにして通り過ぎるってのは」
「ええ、どうやら詮索し合わないほうがいいようですね」
「全くだ」
犬は鼻を鳴らしたようだった。
「こんなところでコソコソしてる奴らなんて、ロクでもないことを考えているに決まってる」
「お互いの抱えている面倒ごとに、お互いが巻き込まれるのもゴメンですしね」
実際には自分の身には今現在大したことは起こっていないが、彼はそう言って苦笑してみせた。
「じゃあ、どうかお元気で」
「ああ、旦那さんもな」
そしてお互いに、息を合わせるようにして決して広くは無い地下道の中ですれ違った。
数歩進んでほっとため息をついた彼の耳に、立ち止まった犬から次のような忠告が聞こえた。
「俺は犬だから、人よりも鼻も耳も利くんだ。ここで会ったのもなんかの縁だから教えてやるが、そのまま進めば行く手が二方向に分かれている。
そこは右の道を進め。さもないとロクでもないことに巻き込まれるぞ」
犬はそういい終わると、長居は無用とばかりに足早に去っていった。
部長はあの犬はなんでこの道を通ったのかについて想像しながらも、その忠告を受け入れるかどうか考えていた。
【六日目・午後五時】
【下水道】
【部長】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:不明
思考:
基本・しばらくは地下に潜伏して様子見
1・部下のマスオとアナゴが心配
【ハチ】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:不明
思考:基本・自分の家族を守る
1:……
(行った……)
血まみれの手でほっと胸を撫で下ろす。
町中の人間の死角になっているだろう下水道で他人と遭遇するという不運な事態は免れたようだ。
誰だかは知らないが、この場所に接近していた男は別の道を選んでいった。
(でも……てことは、ここをこの死体の隠し場所にするのはマズかったかも)
すくなくとも、無造作に下水の中に打ち捨てておくのは危険かもしれない。
解体作業中だった三河屋の奥さんの死体を前にして、ワカメは思案した。
【下水道】
【磯野ワカメ】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:ワイヤー、文化包丁
思考:
1・家族以外の人間を皆殺しにする
2・目撃者をどうにか始末する
【三河屋の奥さん 死亡確認】
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