言えない、ありがとう






父親は殺し合いの首謀者となり。
実の弟のような存在だった甥と、同じく実の兄弟にも等しい存在だった飼い猫は命を落とし。
姉は息子の死を受け入れられずに正気を失った。
これだけの状況の中でもワカメは自分でも意外なほど冷静に事態を見ていた。
以前の自分であれば、きっとただただ泣いていただろう。タラちゃんよりも先に殺されていたかもしれない。
そうはならなかったのは、自分はすでに二人もの人を殺している――その事実が、『自負』となってワカメの心を支えていたからだ。
もう二度と家族全員で付くことなど無い食卓に一人で座って、ワカメは大好物のケーキを頬張っていた。
こんな時でもおやつの準備を忘れない母親には感謝するしかない。
しかし今まではずっと一緒におやつを食べていたタラオはもうこの世には無く、兄のカツオはいなくなったマホを探しに町中を駆け回っている。
兄の性格からして家の中の誰かが殺してとっくに死体も始末してある、などとは考えもしないだろう。
その点で、兄は確かに殺し合いの中でも優位に働くであろう機転と行動力を持っているが、すでに一線を越えているワカメと比べると決定的なものが欠けていると言える。
人を、殺した。
それも最初に殺したのは、生まれたときから知っている親戚のやさしいおじさんだった。
自分がノリスケを本当に殺せるかどうかというのは一つの賭けでもあった。あの日あの時、ほんの少しでも『何か』が違えば――
たとえばノリスケの立ち位置がわずかでも違ったら、ノリスケが屋根の上にいる自分に気付いていたら、あるいはワイヤーでノリスケを手にかけるまさにその瞬間、ためらいのほうが決意よりもほんのわずかでも勝ってしまっていたら。
おそらくその後の自分の運命は、全く違ったものになっていたはずだ。

それにしても、と、オレンジジュースを含みながらワカメは考える。
自分が今ここまで落ち着き払っているのはすでに人を殺したからだ。
では、自分以外でまだ表面上正気を保っているように見える人たちは、一体どうやって自分を支えているのだろうか。
マスオ兄さんは、ひょっとしたら自分と同類かもしれない。
まだ実際には手を汚していないかもしれないが、その瞬間が目の前に来れば躊躇無く殺人を行うという決意をすでに固めているように思える。
息子であるタラちゃんを失い、妻であるサザエが正気を失っているという悲痛な状況の中でマスオの心を支えているのがその決意だとしたら、今のワカメにはとても納得できた。
兄であるカツオはいつでもまっすぐな人間だ。自分の興味や欲望が赴くままに動くのと同時に、いつでも弱者を見捨てられず、どんな場合でも傍観者に徹することを由としない強さがある。
マホを助けた時のように、おそらくはこれからも目の前にいる人を助け、あわよくば父を改心させようという決意のもとで動くのだろう。

では……残る一人、母であるフネはどうなのだろうか。
殺し合いが開始されてから今まで、フネには表面上は何の変化もないように感じられた。
朝は学校にでかけるカツオやワカメを見送り、子供たちが帰ってきたらおやつを出し、夕方には買い物に行って夕飯の支度をする。
変化と言えば、現在サザエが使い物にならない状態なので上記の家事を全て一人でするようになった、という程度のことだ。
かといって、マスオのように冷静を装って腹の中で冷たい決意を固めているといった様子も全く無い。
フネは子供たちに外出時には気をつけるようにといい、タラちゃんが死んだ時には涙を流していたが、直接殺し合いに言及したことはほとんど無い。

あるいは母は、今何が起こっているのかを正確に把握してはいないのではないか、とワカメは思った。
サザエのように傍から見ても明白なほど狂っているわけでは無いが、現実から目を背けて「いつもと変わらない延長」という幻想の中に自分を閉じ込めているだけではないか。
だとしたら――その程度の人間など、眼中に入れる価値も無い。
ワカメは自分にそう言い聞かせた。
私は家族を生き残らせないといけないんだ。この両手を血で染めてでも。この殺し合いと向き合わないといけないんだ。
だから、それから目を逸らしている人間なんて……


「ワカメ、食べ終わったのなら宿題をやっておきなさい」
台所から現れた母は、いつもと変わらない微笑を湛えていた。
「うん」
娘もいつもと変わらない顔で答えて席を立つ。しかし宿題をするためではなく、次に殺す人間とその方法を考えるためだ。
彼女はもう母の言葉を真摯に聞くつもりなど無かった。
「ああそうそう、ワカメ」
部屋に戻ろうとしていたところを呼び止められた。
「カツオが戻ってきたら、おやつを食べるように言ってちょうだい」
「うん、わかった」
それだけを告げると、フネはいつものように他の家事へと戻っていった。

自分の部屋に入ったワカメは机の中に隠しておいた包丁を取り出した。
その時、わずかに違和感があった。その包丁の握りの部分が、前よりも細く、かつ掌にぴったりと収まるような形に変わっているような気がしたのだ。
気にはなったが、気のせいだと思い直してしまいなおした。
一時間後、ワカメは鞄にその包丁と、ノリスケとマホの始末に使ったワイヤーをしのばせるとそれを背負って玄関へと向かった。
悠長にしている時間的な余裕はもう無い。こうしている間にも家族の誰かに確実に危険が迫っているのだ。

かえすがえすも痛恨なのは、あの二人の少年に止めを刺し損ねたこと、そこを見知らぬ男に目撃されたことだ。
しかしあれから丸一日近く経っても、まだそのことが知れ渡っている気配は無い。
何かの理由で三人ともくたばったのならそれでいい。が、そうで無いのならば安心は出来ない。少々危険を冒してでも確認しなければ。
そして同時に、次の標的を探すこともしなければいけない。
荷の重さに気が滅入るが、他に相談できる相手もいないので仕方が無い。まだ家に戻らない兄のカツオが心配なこともある。
勇壮と憂鬱が入り混じったような気持ちで玄関で靴を履いていると、母のフネが小走りにやってきた。
「あらワカメ、出かけるのかい?」
「ちょっと友達のおうちまで言ってくるわ。お夕飯までには帰るから」
「そうかい、じゃあ悪いけど、もしカツオを見かけたらこれを渡してくれないかい」
フネはそう言うと巾着袋を差し出した。
「なあに、それ?」
「カツオの忘れ物みたいなもんだよ。渡してくれたらわかるから。それとワカメ、外ではくれぐれも気をつけるようにね」
フネはそれだけ言い残すと、やはり足早に去っていった。

家の門を出て、ワカメは渡された巾着袋に目を向けた。
カツオの忘れ物だということだが、袋は母のものに間違い無かった。
興味のほうが勝って、こっそりと巾着袋を開けたワカメは中に入っていたものを見て息を呑んだ。
それは一本の出刃包丁だった。
そしてもう一つ、フネの筆による手紙も中には入っていた。
後ろめたく感じながらも読んでみると、そこに書かれていたのはたったの一行だった。

『念のために渡しておきますけど、やたらと使うようなものではありませんよ』

(全部、わかってたんだ……)
ワカメはしばし放心した。
フネは誰よりも子供たちの身を案じていたが、自分が表立って騒いでは家族を不安にさせるだけだと思い、外見上はいつもと変わらぬ日常を続けていた。
変わりに、こんな形で子供たちの身を守ろうとしていたのだ。
自分の隠していた包丁の取っ手を削ったのも母に違いない。子供である自分でも握りやすいようにしてくれたのだ。
そして、包丁の隠し場所を知っていたということは、おそらくは自分のしていることも……
それでも母は何も言わずに自分を送り出してくれた。
さっき玄関で自分と相対した時、母はどんな思いだったのだろうか。想像しようとしたが、自分には一生わからないような気がした。

【六日目 午後三時】
【磯野家】


【磯野ワカメ】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:ワイヤー、文化包丁
思考:
1・家族以外の人間を皆殺しにする
2・目撃者をどうにか始末する


【磯野フネ】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:不明
思考:
1・家族を守る



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