春風の忘れ物






「お食事をお持ちしました」
凛とした少女の声が薄暗い部屋の中に響く。
それを聞いても老人は微動だにしなかった。
老人の両手両足は、それぞれ一本の紐で部屋の隅にある柱に結び付けられている。
体力の衰えた老人とはいえ、用心のためだろう。
現にこの男は、すでに多くの家屋を破壊しているのである。
だが老人の顔には深い皺ばかりが刻まれているだけで、凶行に走った男とは思えない穏やかさを湛えている。
ただ一つ、その双眸にだけ不気味な光を宿していた。
「お食事はいりませんか?」
少女の言葉に、老人は答えようとしない。その目は少女でも、その背後にいる壮年の男でもなく、ただ虚空だけを見つめていた。

「……そろそろ私たちのお話を聞く気になりましたかね、裏のおじいちゃん」

壮年の男が老人に向かって口を開いた。老人はようやく重々しく首を上げた。
「こっちとしても、おじいちゃんをいつまでもこんな扱いの下においておくのは忍び無いんですよ」
だが、老人の口から漏れたのは男の言葉への返答では無かった。
「こんなことをしていても、何にもなりませんのじゃ……」
かつて裏のおじいちゃんと呼ばれていた男は、かつて花沢不動産の社長であった男に向かって、昔話を語るような口調で言った。
「あんたさんや、そこのお譲ちゃんを初めとしてここに集まっている人たちが何を考えているのかはお見通しじゃ。
しかし、そんなことをしたって何にもなりはしませんのじゃ。もう何をしたって無駄ですのじゃ」
「……あれだけのことをしておいて、随分と落ち着いておられるんですねえ」
花沢花之丞は軽蔑の混じった声で答える。

「ふふふ、ワシがロードローラーで走り回ったのは、正気を失ってのことだとお思いでしたかな?
それは大きな間違いですじゃ。ワシはただ、絶望をしていただけですのじゃ」
「絶望を?」
花沢はいぶかしむような声を上げた。
「左様、絶望ですじゃ。ワシに今、この町の中で見えるのは絶望だけですのじゃ。ほっほっほ……」


今日はこれ以上話しても埒が明かないと考えた花之丞は、食事だけを置いて裏のおじいちゃんを監禁している部屋から退出した。
「あれは一筋縄では行きそうに無いなあ」
思わぬ「抵抗」に合い続けていることに、いい加減に辟易してきた花之丞に少女が尋ねる。
「それにしても、要するに絶望してロードローラーで暴走したってことは、結局狂気に捕らわれたのと同じじゃないですか?」
「いや、違うんだろうよ。あのお爺ちゃんにとってはな」
「イマイチ意味がわかりませんけど……」
「俺にはわかる気がするよ。でもまあ、説明するのも骨だ。キミにもいずれわかる。それよりだ……」
この話題はここまでとばかりに、花之丞は露骨に話題を変える。
「お爺ちゃんがあそこまで使えないとなると、こりゃあ思ったより骨だぞ」

暴走の末に、ロードローラーが動かなくなって立ち往生していた裏のお爺ちゃんを拘束できた時には、花之丞は自分を幸運だと思った。
殺し合いが始まってから五日目になるが、これほど目立つ行動を取った者は他にはいない。
当然他の参加者からは、最優先撃破対象として狙われるはずだ。
逆に言えば、裏のお爺ちゃんを自陣営に引き込んでしまえば他の参加者に対してこれ以上無い抑止力となる。
そして裏のお爺ちゃんにとっても、他の参加者たちから狙われる立場になった以上、花沢陣営に匿われることはプラスになるはずだった。
しかし、実際にはお爺ちゃんとは今に至るまでまともな交渉すら出来ていない。お爺ちゃんの心中すら正確にはわからない状態だ。
もはや、早急に何か他の手を打たないといけない。

「かくなる上は、だ……やっぱり君に動いてもらうしかなさそうだ」
花之丞は、傍らに立つ少女に重々しい口調で告げた。
「かまいませんよ。正直どうしてこんな格好をしないといけないのか未だにわからないけれど、今はあなたのことを信用します。
『僕』はただ、磯野を生き残らせることさえ出来ればそれでいいですから」

少女――中島は、けだるそうにウィッグの髪をかきあげた。
波平による第一回放送が流れたのは、その直後のことだった。


【五日目 午後1時】
【花沢不動産】

【花沢花之丞】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:不明
思考:
1・???

【裏のおじいちゃん】
状態:拘束 健康
装備:支給品一式
武装:ロードローラー
思考:???

【中島】
状態:健康 女装
装備:支給品一式
武装:ナタ
思考:基本・カツオ以外を皆殺しにし、カツオを優勝させる
1:花沢花之丞に従う



前話   目次   次話