小さなその手を






「全く、いつの間にかこんな異常事態にも慣れてしまったなあ」
ベッドに腰掛けてコップに入った水を飲みながら、一人の男が嘆息する。
男の名を知る者はいない。特に気にかける者もいなかった。
みんなが知っているのは彼の職業のみ。すなわち、かもめ第三小学校の五年三組の担任教師、ということだけだった。

今彼はいつも生徒の前では着用しているスーツを脱ぎ捨て、上半身は下着さえも脱いで肌を露にしている。
当然普段ならこんなだらしの無い姿を生徒に見せることなど無い。
普段であったら、だ。

「先生、もう起きてたんですか?」

ベッドの中から、女の――というには随分と幼い声がした。
彼女はさっきまで先生が入っていた布団の中に、生まれたままの姿で包まっていた。
彼女はあろうことか、先生が担任するクラスの生徒の一人だった。

「ハヤカワ……」
先生は辟易とした様子を隠そうともせずに言った。
「お前はもう家に帰りなさい。なんだったら送ってあげるから」
「イヤです」
彼女は迷いもせずに言った。
「先生の側から離れるくらいなら殺されたほうがまだマシです」
「ご家族だって心配してるだろうと言ってるんだ」
「もう私なんて死んだと思って、諦めているかもしれないじゃないですか」
そういう彼女の顔は、あまりにも無邪気な子供のそれだった。
「バカを言いなさい。そう簡単に子供のことを諦められる親なんかいるもんか」
「だけど、どうだっていいんです。もう他の人たちのことなんか」
まるでごく当たり前の摂理を言うような顔で告げるハヤカワの姿を見て、先生は静かに後悔する。

(やっぱり、彼女の告白を受け入れるべきじゃ無かったな……)

「先生のこと、本気で好きなんです」
彼女にそう言われたのは果たしてどれだけ前のことだったか。
そこまでは本当によくある話。小学校という場では日常茶飯事と言ってもいい。
彼にとっても決してはじめての経験というわけでは無かった。だから軽く諭すくらいにして、笑い話にしてしまえば良かったんだ。

しかし、いくら断っても叱ってもアタックを続ける彼女のあまりの熱意に押され、気がついたら彼女と唇を重ねていた。

それから果たして、何度こういう朝を迎えただろうか。
お互いに家族や他の生徒たちの目を盗んで逢引を続ける毎日。日常の中に確かな非日常があった。
それが今では、殺し合いという非日常の中で非日常的な営みを続ける毎日。
いや、今ではもはやハヤカワと共に夜を過ごすことだけが「日常」というべきか。

彼の周りの世界はあまりにも変わってしまった。
すでに彼の受け持つ生徒のうち半数近くが死亡。
家が町外にある者は殺し合いが始まってからは帰宅することが出来ず、成すすべなく夜の街をさまよっていたところを
一人また一人と殺されたのだ。
ハヤカワの親友の一人であるカオリや中島、西原、磯野たちは行方不明。
そしてつい昨日、彼らと同じグループである橋本が遺体で発見された。
それでもハヤカワの様子には目立った変化は無い。
まるで何事も無かったかのように、先生の隣で無邪気な微笑を浮かべている。
(磯野……中島……お前たちは無事なのか?)
そう心の中でつぶやく先生の不安げな横顔など意に介さず、ハヤカワは彼の手に指先を重ねて言う。

「先生は、どこにも行きませんよね? ずっと、私と一緒にいてくれますよね?」

(違う……こんなの、間違ってる)
先生の中の理性的な部分がそう告げる。
こんな関係の果てに待っているのはきっと破滅だ。
いや、仮にお互いにこの殺し合いから生還できたとして、その先に一体どんな未来があるって言うんだ?
少なくとも、これからこの子が生きていく人生の中には自分はいちゃいけない。
いちゃいけないんだ。

だけど、彼は気がついたら彼女に顔を寄せて唇を重ねていた。

「ハヤカワ。私は、どこにも行かない。お前を守る。必ず一緒に生きて残ろう」
それが本心なのか偽りの言葉なのかさえ、もう彼には分からない。
これは、あまりにも悲しい恋だったから。

先生はハヤカワから唇を離すと言った。
「さあ、服を着なさい。学校へ行こう」
彼は授業をするために彼の職場である学校へ行くつもりだ。
彼と彼らの日常を守るために。

【五日目 午前7時】
【先生の家】
【先生】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:不明
思考:
基本・ハヤカワを守る
1・学校に行き、授業をする

【ハヤカワ】
状態:健康
装備:支給品一式
武装:不明
思考:
1・先生とずっと一緒にいる




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