まっすぐに歩く






 あの人の背中を思い出すと今でも少し胸が痛くなる。
 涙が出そうだ。

 あのスレッドに書き込みをして以来私は何かを恐れてずっと悪夢の中にいた様な気がする。
 それは流れる時間が癒やしてくれて、私はいつの間にか悪夢を忘れた。
 あの物語は完結したらしい。
 良かった、熱病にも似たあの狂おしい日々は、私の中で本当に終わったのだと、そう思った。

 だけど終わっていなかった。
 夢のように思われた紙媒体化企画、そして……
 忘れてはいけなかったのだろうか?
 そして私はまだ悪夢の中にいるのだろうか?
 私は十字架を背負って
 まっすぐに歩く。

 突然、玄関が開かれた。

 あの人は慌ててこちらに銃を向ける。
 けど私と判ったのか惚けた様にこちらを見つめている。
 血を流していた。私の為に。
「……わ、私。あなたのこと、信じてました」
 声が震える。ナイフを握った腕も震える。
「だけど、だけど、あなたはっ!」
 フードが外れる。私は夢中で駆け出した。

 あの人目がけてまっすぐに走る。

 水の中を歩く様に周りの景色がスローモーションで流れた。
 あの人が銃のトリガーに指をかける。
 間に合わない。このナイフはきっとあの人まで届かない。
 コロサレル。
 いいんだ、私は、きっとこれで、いいんだ。
 私は深い眠りから、悪夢から目を覚ますんだから。
 そんな中あの人は微笑んでいた。手から零れ落ちる銃。

「駄目っ!」
 私は無理矢理体勢を崩しながらあの人の胸に倒れ込んだ。
 ナイフがあの人の顔からほんの数センチ横の壁に突き刺さる。
 血の臭い。あの人の臭い。
 いつの間にかあの人に抱きすくめられていた私はその胸の中で思いきり泣き叫んだ。
「あなたは……あなたはずるいです! 一人だけ死のうとするなんて、ずるいです!」
 あの人の温かい指があふれ出る涙を拭うように私の頬に触れる。
「ごめん……」
 そんな、たった一言で私はまた涙が止まらなくなる。
「だ、大嫌い……」
「無事で、よかった」
「だ、……」
 もう、言葉にならない。

 ひとしきり泣いた私はおもむろに立ち上がり壁に突き刺さったナイフを抜き取る。
 そしてそれをあの人の顔の前に向けた。
「う、動かないで下さい」
 やっぱり声も体も震える。
「今からあなたを……殺します」
 あの人の左頬をそっと引き裂く。
「……こ、これであなたは半分死にました」
 流れ出る血
「い、言いました……よね、私……L.A.R.さんに会ったら……は、半殺しにするって」
 一筋の
「だから……あなたの半分、わ、私が……貰います……私が自由にしていいんです、だから、だから!」
 消えない傷を
「死なないで、生きて下さい」
 あなたに与えて

 目が覚めた。世界が赤く染まっていた。
 いつの間にか少し眠っていた様だ。
 何か、とても都合の良い夢を見ていた様な気がする。
 だけど、もう、思い出せない。
 夕日が沈む。
 どこからか流れてくる雑音混じりの嫌な声、ピー、ガー。
「よぉ、下川や。本日2回目の放送やで、しっかり聞い」
 私はまた、まっすぐに歩く。



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