見えざる敵
学校に向かう一組のカップル。
目的地が見えてきた所為か、名無しcdとquitの心に余裕が出来ていた。
昼食は何を作るのとか、どんな料理が得意なのかとかそんな、日常で交わされるような、平凡で他愛無い会話をしながら学校に向かっていて――
――ふと、思う。
どうして今まで、そんな平凡な日常の一コマが、かけがいのないたいせつな幸せの小さな欠片だと気付かなかったのだろう、と。
今、横に居て、笑っていてくれる彼女とずっと一緒に、その幸せの小さな欠片を集められたらいいな――と。
だけど。でも。それは絶対的なまでに――。
突然、全体重と共にquitは名無しcdに倒れ込んだ。名無しcdは米やら野菜やらが詰まった鞄を肩に掛けていたが、元々体重の軽い彼女を支える事ぐらい出来た。
「どうしたんだい?」
彼女は応えなかった。
否、応える事が出来なかった。――何故なら、溢れる想いが止まらなかったから。
「どうしたんだい?」
もう一度。泣きじゃくる子供をあやすように――彼が昔、妹にそうしてあげたかった様に――優しく問いかける。
「……ううん。ちょっとつまずいただけ――だけだから……だか…ら…もう少しだけ、このままで……」
道中で無防備に突っ立っている程、危険な行為はなかった。そんな事は解かりきっていた。――しかし、溢れる想いは止まらなかったのだ。
名無しcdもそんな彼女の心境を悟ったのか彼女を抱き締める。それで彼女の不安が消えるならと。
――夢見る様に瞳を閉じる。溢れる想いが涙に変わる。
ただ、彼に、抱き締められているだけで、幸せだった。満足だった。
それはほんとうに、幸せの小さな欠片。――できればずっとこうしていたかった。
けれども。しかし。それは絶望的なまでに――。
quitがそっと離れる。――まるで、たいせつな宝物を誰かに託すように。
「……ん。元気、でたよ」
そう言って、涙を滲ませながら微笑む。
それは、彼が見た中でも最高の――とびきりの笑顔だった。
刹那。
空気のうねりが聴こえた気がした。まるで、もの凄い速度で空気を引き裂くような、音。続いて、金属が地面と擦れ合う音。
それが聞こえたと思った時には既に。名無しcdの目の前でquitが半回転しながら――鞄は肩に引っ掛かったまま巻きつき、箱は手から離れて宙を舞う――後ろ向きに、吹っ飛んでいた。
ナニガオキタノカワカラナカッタ
地面を少しだけ滑り、うつ伏せのまま彼女は止まった。
彼女は動かなかった。
すとん、と。名無しcdの肩から鞄――これから、料理しようとしていた材料が詰まった鞄――が滑り落ちた。
膝ががくがくと震えていた。彼は息が詰まり、心臓が締め付けられそうになり、足の先から全身を駆け巡る毛虫の様な悪寒を感じた。背筋がゾクゾクと波打ち、涙腺から何かが溢れ出そうになる。
――それでも彼は駆け出していた。愛しきひと。守りたいと思ったひとの処へ。
何が起きたかなんてアト回しだ。今は彼女が心配だった。
(今まで一緒にいたんだぞ? 喋ってたんだぞ? なのに……なんで? どうして? これからもずっと一緒のばずだろっ!? だから――だから――)
「――冗談、だろ?」
呟く頃には既に、彼女の傍に膝を付いていた。出来事は一瞬の様に感じられたし、永遠にも感じられた。
うつ伏せの彼女を抱き抱える。当然ながらまだ温かい。――というか、彼女は生きていた。
派手な外傷も認められず、きれいな顔のこめかみ辺りに、擦過傷が刻み込まれていただけだった。その衝撃で脳震盪を起こし、意識と体が吹っ飛んだだけだった。
彼から安堵の溜め息が漏れるのと同時に――怒りが涌いてきた。純粋な、汚れなき怒り。
だが、今は彼女を安全な場所へ移動させなければならない。
冷静に、落ち着いて、考えて。
名無しcdは直に気付く。――撃たれたのだ彼女は。そして体が吹っ飛んだ方向からして襲撃者は学校――俺達の目的地だ、畜生ッ――から、おそらく狙撃したのだろう、と。
そして、彼は彼女を抱いて――お姫様だっこで――駆け出した。鞄の所為で走りにくかったが、気にしている暇はなかった。最早、一刻の猶予もない。何時、撃たれてもおかしくなかった。
彼は身を隠す為に走る。顔も名前も判らない、襲撃者から彼女を守る為に。
――己の命を賭けて。
【quit/気絶中/見た目軽傷/箱は放置】
【名無しcd/quitを抱き抱え逃走/自分の鞄は放置】
【日向葵/初弾がわずかに外れる】
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