青の証明。






 少女の足はけして速くはなかった。年相応に遅いし、年相応に弱い踏み足である。それでも少女は走る。
 小さな足音を鈴のように響かせながら、右手には機関銃を構えて、雑木林の中に確認できた二つの物陰を目掛けて。
「――っ」
 不覚だった。「まだ」自分は桐山和雄には成り切れていなかったということか。歯軋りをしながら駆ける、心の中で
自己への呪詛の言葉を描きながら、今度こそ桐山和雄に成り切るのだと囁きながら。
 硝子の破片がちろちろと空を舞い、青みがかった空に煌きが走る。それはちょうど月が落ちてくるように不思議な光
景に見えた。焦りを覚えているはずの「。」(女子・3番)には、だが、それでも一瞬空を見上げる余裕さえもあるのだ。

 それは、自分の方が圧倒的に彼ら二人よりも優位にあるという自信。簡単だ。こちらが先に見つかったのに、自分は
殺されなかった。それは彼らに武器がないか、あるいは戦う意思がないのだということだから。
 武器よりも怖いのは「戦闘する意志」だ。

 何にだってなれる。ぼくが演じ切れないものなど何もない。
 感想スレでも、どんなに酷い事をいわれてもいつも笑顔でいたじゃないか。
 聖人を演じるより、気高き狂人を、感情のない人間を演じるほうがずっと楽だ。
 何故なら、それは演じる必要がないことを意味しているのだから。
 「それ」は、ぼく自身だからだ。

――感情を顕すのくらい、感情がない人間でも出来る

 雑木林の遠くに二人の男の影が見えた。
 少女の目は次第に「青」を帯びていた。それは空の青だけではなく、きっと彼女をつつむ「青」のせいだった。

*

「が、餓鬼の足なのに振り切れないのはどういう事なんですか椎原さんっ」
「わかりますわかります、わかりますけどわかりません」
 などと冗談を抜かしている場合ではない。
 みるみる喫茶店が遠くなっていく。数十秒前には手が届くようなところにあった建物が、もうM87星雲の彼方へと
飛んでしまっていて、つまりもうそれだけの速さで自分たちは走り続けているはずなのだが。
 カァン、と音が連続で鳴るため、カカカカカカカカカァンッ、という感じの音になってしまっている。それは自分が
慌てて持ってきてしまったフライパンに何かがあたる音で、その何かというのは間違いなく自分の後ろを走る少女が持
つサブマシンガンから飛んでくる多分恐ろしいほどの熱を帯びた鉛の弾丸で、それは自分たちがあの小さな少女、少女
というか幼女を振り切れないことを意味していた。
「な、何で振り切れないんだ、冗談抜きでっ」
 #3-174(男・38番)は吐き気を催すように歪んだ顔で自分の僅か前を走っている、多分自分と同じように顔を歪めてい
るT.T(男・23番)に話しかける。果たして声になって届いたか疑問なほどに掠れた声であったが、幸運なことにT.Tはそ
の声を認識してくれたようである。
「あ、あれは多分、『。』付きの人ですよねっ」
 ライダー的なツナギ、最近では霧間凪スタイルと呼ばれる格好をしたその青年は、幾分か明瞭とした声で返事をした。
振り返ったその表情には汗が滲んでいてまったく余裕は見当たらないのに、声には幾分余力がある。これは彼のほうが
自分より体力があることを意味しているのだろうか、とか思うが、何のことはない。自分はさっきたらふくに卵を食っ
て胃がもたれているからこう、駄目なんだろうと思う。というか、
「『。』付きの人は本当に幼女……」
 T.Tの言葉に思わず嘆息を吐く。と、そんな事に感心している場合ではない。

「いや、多分他に幼女いたらおかしいというか、笑う」
「なら、おかしいですよっ……こっちについてくるのもおかしいですが、『。』付きさんはほら、最初出発した時、あ
んなに怯えた顔をしていたのに」
 T.Tは心底不可思議だ、という表情で後ろを見る。つられて#3-174も振り返る。雑木林の陰に隠れてよく見えないが、
ちらりちらりと見える姿は、確かに少女のものだった。

「わからない、あれは彼女の一流の演技だったという事なのか?」
 そんな言葉を吐くか吐くまいか、というときに、また弾丸が二人に噛み付いてくる。
 カカカカカカカカカカンッ! またフライパンに弾丸が直撃する。幸運なことに、まだ一撃も弾丸はこちらの肉体に
直撃していないが、だが弾丸は的確にフライパンを狙い、よく見ればフライパンは傷だらけで穴が開きそうになってい
た。もう目玉焼きは作れない。人を殴ることくらいにしか使えない。
 ――違和感を抱く。何故、こうも器用にフライパンにだけ弾丸を当てられるのだ。まさか、狙っている? 何の為に、
まさかこちらに恐怖を覚えさせるためではあるまい。それ以前に何故狙える? それだけの技術が何故ある?
 まさかあれか、ハカロワでの彰と同様に、ご都合主義的に重火器の使用に長けているとかそういうオチか?

*

 まだ、感情を殺しきっていない。
 遥か(略)に出会う前に少し練習していたこともあるし、サブマシンガンの扱いはなかなかに馴れていた。
 馴れすぎているほど。20m近く離れたところから、相手の持つフライパンだけを目掛けて、狙い撃ちできるほど。
 わたしは一つ唾を飲む。わたしの身体は何かに覚醒したのか。ただの子供のわたしが、こんな芸当を出来るなんて。

 何故フライパンを狙っているのか。決まっている、
 怖いからだ。それが、少しだけおかしい。
 恐怖という感情だけは誰の心にでもあるのだろう、きっと、桐山和雄にもそれは平等に。
 だが、そろそろ覚悟を決めなければ。恐怖を乗り越えれば、あとは桐山和雄だ。

*

「ぜ、全然離してないっ。このままじゃ追いつかれるっ」
 #3-174は魂を吐き出すようにつらそうな顔をする。くそう、引き篭もり生活をしてたから、足がまともに動かない。
自分が速度を落としてしまっては、前を走るT.Tまで巻き添えになってしまうかも、

ガガガガガガガガガガンッ!

 その焦燥を見抜かれたかのように、ついに狼の牙が喉元に当てられた。
「「くぁっ!」」
 真っ直ぐに飛んできた弾丸がついに二人の肉体に襲い掛かる。T.Tの背中に何発か、そして#3-174の右足の太腿にも。
二人は同時に悲鳴を上げ、#3-174は思わず前のめりに転がった。T.Tはなんとか持ちこたえるが、倒れた#3-174を起き
上がらせるために立ち止まってしまう。
 くそっ、銃で撃たれるというのはこれほど痛いものだったのかっ……っ
 くそう、死ぬのか、殺されるのか、俺はっ! 涙がこぼれる、吐き気がする。こんな痛みなんて死ぬような痛みじゃ
ないのに、なんでこんなに怖いんだ。つらいんだ、くそ、俺は幼女に殺されて一生を終えるのか! 葉鍵板住人だが別
に俺はロリコンじゃないしMな男でもない! みんながみんなロリコンだと思うな馬鹿野郎っ! くそ、くそっ!

 だから、#3-174は脳内の言葉すべてを押し殺して、自分に駆け寄ったT.Tに叫んだ。

「馬鹿っ、俺に構わず行けっ! 『。』付きさんに殺されるぞっ!」
 少しの間とはいえ、自分とともにいてくれた目の前の男をむざむざ殺させるわけにはいかない。そう思って、全力で
叫んだ。
「……僕たち、友達だったよな、今度はまたどこか別のところで会えるといいな」
 判り辛いネタを、つらいのも我慢して吐いてみた。死のロングウォークなんて、普通の葉鍵板住人誰も読んでないっ
ちゅーねん、と、悲しく思いながら。
 だが、T.Tの表情は真剣そのままで、
「歩けるな、なんとか」
 なんというか、男らしい言葉を吐いた。

「#3-174! このままじゃ共倒れだっ! ――いけっ、僕が少し時間稼ぎをする!」
「馬――っ……馬鹿、君にはしっかりと動く足があるじゃないか! 君が犠牲になる必要は」
 マクロスばりに叫んでみた。歌が歌えるからなんやっちゅーねん、と視聴当時思っていたなあ、あはははは、そんな
事を考える余裕がある俺カコイイ、じゃない!

 おい、この目の前の男は何を考えていやがるのですか。
「心配するな、死ななければすぐ追いつく! このツナギは防弾チョッキだ、少しは勝負できるさ」
「な……七原、お前」
「七原って誰やねんっ! ――また後でどっかで落ち合うぞ! 僕は絶対死なない!」
 少しだけ笑って、T.Tはそう言った。その笑いに、何か不吉なものを覚えて、不安でどうしようもなくなってしま
ったけれど――#3-174は一つ歯軋りをして、小さく頷いた。
「まだ俺はたくさん卵を持ってる! 一人じゃ食い切れないほどあるんだ、一人じゃ食えないんだ、」
「判ってるよ。僕たち二人で、卵を食べるんだ。オムソバ作ってね、オムソバ」
「いいなあ、オムソバ、問題はソバが何処にあるかだけどな」
 そんな事をだらだらと話している。なのに、少女はここにやってこない。

「取り敢えず荷物があると逃げるの大変だから、これ、頼むわ」
 そういって、T.Tは持っていた鞄を#3-174に渡す。滝和也ライダーセットの、残りのグッズだ。
 鞄を受け取ったのを確認するとT.Tは#3-174のフライパンを奪い取ると、これまで走ってきた道を逆戻りしていこ
うとする。
「っ――後でだぞっ!」
「そんな事言ってる間に逃げろ! こっちの戦いが無駄にならないように、早く逃げろ!」
 #3-174は、苦虫を潰したような表情をすると、重い足を引きずりながら、
「どっか、海岸の辺りに向かってるから、『。』付きさんをなんとかしたら、すぐ来いよ!」
 雑木林の奥へ、歩を進めていった。
 ――その行く先に、ぽとぽとと血が流れ出している事に、#3-174は気づかない。

 ――それほど逆戻りする必要もなかった。
 すぐ目の前に、真っ青な空気を纏っているようにさえ見えた、不思議な表情のポニーテールの少女が、狼の牙――
イングラムM11を片手に、深い深い闇をこちらに向けて、とぼとぼと、T.Tの前に歩いてきたからだ。
 真っ白なセーラー服が異様にまぶしい。ロリコンでもないのに。

「そのツナギは、多分、防弾チョッキじゃないでしょう?」
 少女の高い声が、青年の、背中にずきずきと走る弾丸の痛みに響いた。
「――ばれてた、か」
 T.Tは苦笑する。今すぐに殺されてしまうというのに、こんな笑いが浮かぶのは。目の前の少女の瞳が、
「何で、彼を生かそうとしたんですか? 自分だけなら、逃げられたかもしれないのに」
 ――やさしすぎたからだろう。
 こんな目をした少女が、どうして人殺しをするのだろう。それだけは聞きたかったけれど、聞いてはいけないことのよ
うな気もしてしまう。だから言葉にはならなかった。
「どうして、ですか?」

 T.Tはすべての思考を停止させて、どうしても、自分自身に言い聞かせたかったことを囁く。。そう。たとえどんな世
界であっても、これだけは裏切れない気持ち。

強く笑って。 
「どれだけ短い間であっても、友達だったやつを見殺しに出来るような男じゃないんだ、僕は」

 青い瞳をした少女は少しだけ悲しそうに、そして、次の瞬間には、氷のように冷たく視線を凍らせて、その真っ直ぐ
な視線を自分の倍はありそうな体格の男に向けて。
 左手のフライパンを振り上げて、「。」の脳天を破壊しようと襲い掛かろうとしたその刹那。寺社の鐘が、耳の遠く
に響いたような気がした。無数の鉛の弾丸が気高き青年の胸から腹に掛けて打ち込まれ、その瞬間に青年の生命は終わ
った。小さな少女の身体にもたれかかる様に、ゆっくりと倒れこんだ。
 青年はだが、その生命活動を終えても、その笑顔を崩そうとはしなかった。それは、世界を覆う青には不釣合いなほ
どに美しいものだった、と思う。
 その気高き青年の体中から流れる真っ赤な血は、「。」のセーラー服を美しく汚した。
 そして、その瞬間の「。」の表情は、嫌になるくらい悲しそうだった。

「――さ、もう一人も追わないとね」
 次の瞬間には、少女のカオは、「青」に包まれていたけれど。


【23番 T.T 死亡    ―――――――残り24人】
【滝和也ライダーセットのツナギ以外は#3-174が受け継ぐ】



前話   目次   次話