静かな湖畔の樹の陰で
「君をスパイさん一号に任命するよ〜」
「はわわ〜っ、待ってくださいよ〜」
唐突に、佳乃はマルチに命じた。
「問答無用だよ。あそこの湖のほとりにいる人を探ってきてくれないかな」
言われた通り、そこには誰かが一人佇んでいる。
そしてそれは、マルチのよく知っている人――に思えた。
「あれは、芹香さん?」
「知り合いかな?」
「はい、来栖川芹香さん。来栖川グループのお嬢様でわたしが仕えてる方です。綾香さんという方もこの島にいらっしゃるのですが」
「来栖川芹香……」
「舞ちゃん、どうしたの?」
「この島に来栖川芹香という人と、来栖川綾香という人がいるのがわかった」
「舞ちゃんの探してる人は倉田だったよね。じゃあ、その二人より前だから、二人の番号がわかったら絞れるよ」
「そういうこと。だけどそれがわからない。21番から先は声が聞こえない」
「上手くいかないね」
こくんと頷き、舞は盗聴器の番号を再び20に合わせた。
「不意打ちに決定! マルチちゃんの知り合いなら少しは油断するんじゃないかな。そこを狙うんだよ」
こんなにも早く考えたくなかった可能性に直面すると、マルチは予想していなかった。
あの時のセリオの言葉が胸に刺さる。そして同時に、自分が思ったことも。
――生きて、もう一度、浩之さんと――
思い出した時には既に体は動いていた。芹香の立つ、静かな湖畔の樹の陰へと。
気づかれたらもう、引き金を引く自信はなかった。立ち止まり、腕を上げ、震える体でそっと狙いをつけた。
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