鬼は闇に潜む
B-2。
ここにある古代ローマ風の円形闘技場の観客席の一つに、腰かけている一人の男がいる。
深編み笠に、紫紺・橙の袖なし、黒一色の長着・伊賀袴、同色の手甲脚絆に草鞋履きという、
余りにも周りの風景から浮いた装束のこの男は、深編み笠の正面の隙間より、鋭い独眼で、天の月を見詰めていた。
『独眼』と言ったが、男の右目は潰れている。
男がまだ嬰児の時に、実の父に鍬で潰されたのだ。
笠の下の髪は総髪で、髷すら結わぬざんばら。
年のころは十代後半、鼻筋は通っていて、なるほど美男ではあるが、
どことなく鋼鉄を思わせるストイックさが表面に出ていて、やや気真面目すぎる容貌に思われた。
膝の上には、今しがた、闘技場の地下から拝借してきた一振りの短剣がある。
刀身70センチほどの、柄頭の丸い短刀で、今は鞘に入っているが、
抜けば両刃の幅が広く先の鋭い刀身が出てくる。
古代ローマで使われたグラディウスという種類の剣で、突き、斬り両方に優れた威力を発揮する。
男は鞘からグラディウスを抜いて刀身を月に翳して見る。
なるほど、使いなれぬ諸刃の、しかも短刀であるが、なかなかの業物、
脇差の代わりぐらいにはなりそうではあった。
男は、グラディウスを鞘に戻し、立ち上がりながら付属していた革帯で腰に垂らした。
次いで男が懐から取り出したのは、鞣革の巾着袋だった。中には何も入っていない。
男は其れを持って階段を降りる。
すり鉢状になっている円形闘技場の観客席の一番下まで彼は降りた。
そこには簡単な手摺があって、その下は高さ5メートルはあろうかとう段差になっている。
先述したが、闘技場はすり鉢状になっていて、中央部に円形の区画がある。
床は木製で、その上には、砂と、砂利が敷き詰められている。
この区画は剣闘士達が、その生死を掛けた戦いを観客に見せるための戦場で、
周りを5メートルほどの壁に囲まれており、観客席はその上にある。
そこから段々状に椅子が連なる構造になっており、後世のスタジアムへと引き継がれる形式だ。
男は、手摺に右手を乗せ、5メートル下の地面を暫く眺めていたが、
なんという事か、男はそこからひらりと飛び降りたではないか。
常の人ならば、この様な高さから飛び降りれば大なり小な怪我は免れえぬ物であるが、
宙で体を丸めクルリと回転して見せた男は、ストッと何の危なげもなく着地して見せた。
男は常の人では無い。
その動きは、一流の体操選手に匹敵する、あるいはそれ以上の見事な身体操作法である。
男は流れるような動作で立ち上がると、闘技場の中央部へ足を進め、屈みこんだ。
闘技場の床に敷き詰められているのは殆どが砂だが、中には幾つか砂利が含まれている。
男は、そんな砂利を丁寧に拾っては、例の鞣革の巾着に入れていく。
ある程度揃ったところで一つだけ手の平に残して、巾着を締め直し、懐に袋を入れ直す。
最後に残った一粒を弄びながら、
男は壁に備え付けられた入り口―剣闘士達の入場口で、地下に通じている―へと向かう。
そして、体を闇に沈める前に、手にしていた礫をピンと指弾で弾いた。
するとどうであろう。
男の弾いた礫は、壁に深々とめり込んでいた。
血風党式“裏の武芸”が一つ、『霞のつぶて』。
小石、あるいは鉛玉鉄玉を指先で強烈にはじき、
敵の身体にめり込ませて敵を殺傷する恐るべき暗殺術である。
男は、青年は、戦国江戸初期にかけての動乱の時代の裏側で文字通り血の雨を降らした、暗殺集団『血風党』が、その暗殺の歴史の中で極めた一撃必殺の裏の武芸を余すことなく受け継いだ最後の男であった。
男の名は『土鬼(どき)』。
その名の如く、土より生まれた恐るべき鬼子である。
◆
まだ世界の生産性が低かった時代、洋の東西を問わず行われたおぞましい風習がある。
其れは俗に「間引き」と呼ばれる、口減らしの為の子殺しの事である。
主に対象は嬰児で、濡れた和紙を寝ている顔にかぶせて窒息死させたり、
地面に埋めたろするのが、日本では一般的であった。
「貧乏子沢山」という諺があるが、これは生物学的に理にかなった現象である。
生産性の低かった時代の貧しさはそのまま餓え、つまり生命の危機に直結し、
その結果、種を残そうと精子の急激な増産、排卵の増加、性欲の増加などが人体に起こり、
結果としてそれが多産に繋がってしまうのである。
しかし、「貧乏」なのだから多く生まれた子供を養う事など出来ない。
それが、度重なる「間引き」の悲劇を生みだす事となった。
“その子”も、「間引かれた」嬰児だった。
名前すら付けられる事無く地に埋められた土鬼は、
一晩生き埋めにされながら生き延びた。
彼は生き埋めになりながら一晩中泣き続けていた。
余りの出来事に、思わず掘り返してしまった彼の父だが、
次の晩、この嬰児をもう一度埋める事となった。
しかし今度は、昨晩より深く埋めたにも関わらず、あろうことか、自ら地中より抜けだそうとすらした。
父親は鬼の子供と恐れおののき、鍬で嬰児を殴り、その右目を潰したが、それでも嬰児は生きていた。
恐るべき生命力であった。
この嬰児を、偶然通りかかった大谷主水という男が拾う。
彼は、この恐るべき嬰児を「土鬼」と名付け、自分の子として育てた。
大谷主水は、かつて徳川家康が密かに結成した恐るべき暗殺部隊『血風党』の脱党者であった。
それから十数年の月日が流れた。
◆
闘技場から外に出た土鬼は、改めて周りを見渡す。
江戸時代初期にその人生を送った土鬼にとっては、甚だ見覚えのない奇怪極まる風景であった。
「・・・・・・・・・」
果たして今見ている風景は夢か現か。
それが解らぬほど耄碌する歳でも無いが、では果たして目の前の光景、
現在の置かれた状況をそのまま納得できるほどいい加減な精神の持ち主でも無い。
「・・・・・・・・・」
ここは何処なのか、どうしてここに自分がいるのか、如何様にしてここまで連れてこられたのか、
殺された少年は何者だったのか、あの謎の声の主は何者だったのか…
容易に知れぬ謎ばかりである。
「・・・・・・・・・」
殺し合いに参加するかと言われれば論外である。
そうなれば、大義を失い、単なる快楽殺人集団になり下がった血風党の同類に成り下がる。
「・・・・・・・・・」
すぐに故郷へ帰らねばならぬという、のきさしならぬ事情も無い。
既に、彼の望み、そして彼の父、大谷主水の望みであった血風党の裏の武芸を、
単なる暗殺の技で無く、純粋な武芸として完成させるという望みは、果たされているのだ。
では、今の自分は如何に行動するべきか。
「・・・・・闇は闇が屠る、か」
“裏の武芸”は殺しの技。
かつては、徳川の天下の安泰という、大義の為に振るわれた技。
その最後の使い手たる自分はどうするべきか。
殺し合いに乗った人間を屠り、あの謎の声の主を打倒す。
これを置いてほかにあるまい。
「・・・・・・・・・・」
強大な敵である。恐るべき敵である。
しかし、それ故に血が騒ぐ。
因果な習性。
かつて当代最強の武芸者と言われた宮本武蔵と立ち合った時に言われた事がある。
“お前は俺と同じだ”、と。
戦わずにはいられない。血が、魂が闘争を求める。
本質的には理由すら必要とせず、戦いの為に戦う。
そんな壊れた人間。
お前は“それ”だと武蔵は言った。そして俺もそうなのだ、とも。
そうかも知れない。
俺は戦場以外で生きられない人間なのかも知れない。
だが、だとすれば。
せめてこの魂、正義の為に。
土より生まれた恐るべき鬼は、夜の街へと駆けだす。
その姿が闇に見えなくなるのに、僅かな時間しか要さなかった。
【B-2 街中 / 一日目深夜】
【土鬼@闇の土鬼】
[状態]:健康
[装備]:グラディウス、小石数十個
[道具]:デイパック、支給品一式
[思考]
1:殺し合いに乗った人間を屠る。
2:謎の声の主を斃す。
【備考】
※本編終了後からの参戦。
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