天国への疾走
イグニッション。
地震でも起きたかと錯覚する程の振動が車体を揺らす。
「ほな」
妹尾幸治は誰に言うでもなく呟くと、静かにアクセルを踏んだ。
空色のキャデラックが玉木自動車のモータープールから、スルスルと滑る様に
走り出す。
この車なら今にもあいこの元へと飛んで行けるのではないか──そう思える位、
優美な(そして非効率的な)フォルムをこの米帝製自動車は持っていた。
行先は玉木社長が個人的に懇意にしている修理工場、という事になっている。
高度に規格化された国産自動車だけではなく、部品調達が難しい輸入車の整備・
修理も可能な施設は、美空市周辺にはそこだけだからだ。
米帝製品を入手するのは存外簡単である。所定の関税が上乗せされて倍以上に
なった価格で、数少ない取扱業者を通せば誰でも買える。だが、維持・補修と
なれば話は別だ。ノックダウン方式による生産を防ぐ為、完成品以外の輸入は
著しく制限されている。又、輸入した所で多品種少量需要では採算が合わない。
こうした輸入自動車の部品は町工場が細々と受注生産するのが常であり、精度
が大幅に劣ったり過当競争になりがちだったりと問題ばかりだった。
車道楽の玉木も元々はそうした諸問題に悩まされた一人だった。
最初は各地のジャンクヤードと同好の士をネットで結び、共食い整備用の部品
取りを円滑に進めていただけだったが、町工場をそれに含める事で需要と供給
を集約・効率化し、既存の企業が手を出さない隙間(ニッチ)産業を確立した。
自動車整備事業を立ち上げた玉木が中古自動車の売買、そして旅客自動車へと
事業を拡大したのは昨年の事だった。折しも資金繰り悪化で倒産した東栄興業
の施設が売りに出ており、初期投資を最小限に抑える事が出来た。
東栄興業に所属していた幸治が玉木自動車の門を叩いたのもその頃だった。
そんな事を考えている内に、ある古びた建物が幸治の視界に入った。
MAHO堂。
時折あいこが手伝っていた、同級生である巻機山花の祖母が営んでいた店だ。
その入り口付近を異様な一団が占めていた。『おんぷちゃんを返せ』だの『児
童プログラム中止』だの書かれた垂れ幕を掲げたその周囲を、警察や防衛軍の
人と車両が遠巻きにしている。
「おんぷっ、ちゃあああんっ!」
野太い合唱がこだまする。警察と軍の代表者らしき人物はそれらを横目にボソ
ボソと善後策について話している様だった。
繰り返される合唱。だが、誰かが不用意な一言を洩らした。
「総統のバカヤロー!」
いつのまにか車を止めていた幸治はその台詞を聞き顔面蒼白になった。アホっ、
お前ら只済まされへんで。
警察の代表が高々と挙げた右手を振り下ろすや否や、防具を装着した警官隊が
MAHO堂前の群衆へと蟻の様に群がった。1人、又1人と瀬川おんぷFCの
メンバーが警官に引きずり出され、窓を金網で囲ったバスへと放り込まれる。
防衛軍の兵士達はその様子を面白そうに見ていただけだったが、幸治の存在に
気づくと将校らしき制服の人物が厳しい表情で近づいて来た。
横合いから割って入った人物がいた。将校は二言三言話すとその場に留まる。
警察の制服に身を包んだその人物に、幸治は見覚えがあった。
「中島さん…」
4年生まであいこの同級生だった中島正義の父親だった。
「失礼します、免許証を」
敬礼に続いて慇懃な実質的命令。
「あ、はいっ」
「妹尾さん、その車は?」
中島の向こうでは将校の視線が胡散臭げにキャデラックを嘗め回す。
「社長の道楽車ですねん。調子が悪いさかい、工場へ持ってく所ですわ」
嘘は言っていない。この時点ではまだ、だが。
「ご覧の通り、退廃分子を拘束中です。美空市に入ろうとする不審者も検問中
ですので、会社に戻られましたら該当する人物を乗せた時は直ちに警察へ通報
する様、伝達願います」
「は、はぁ」
「ご協力感謝致します」
中島は顔色一つ買えず敬礼した。将校が犬か猫でも追い払う様な仕草で、ここ
から立ち去るよう促した。
幸治は殊更大きくエンジン音を響かせてキャデラックを発進させた。
街中を走ると、あれほどいたと思われた防衛軍兵士の姿がめっきり減っている。
国鉄の駅や長距離バスの中継所に4、5人見かけたが、後は引き揚げたか別の
場所へ移動したのだろう。
何本か弔旗を出している家がある。プログラムの結果は出ていない筈だから、
恐らくは春風さんの様に防衛軍兵士に抵抗して「排除」──勿論、この世から
──されたか、子供を儚んで自殺した家族がいたのだろう。
益々強固な物となった決意を乗せ、キャデラックは郊外へ向かった。
幸治が大型浴場から揚がった頃、日はとっぷりと暮れていた。
汚れ物をゴミ箱へ、手紙をポストへそれぞれ放り込み、全てを振り切るかの様
にキャデラックが猛スピードで駆け抜ける。
メーターは60を指していた。キロメートルではない。6割増のマイル表示だ。
すまんなあつこ。不器用なワイにはこんな事しか出来へんねん。
あの子は、あいこは変なとこばかりワイに似てしもうた。
アレを生き延びるのには正直過ぎ、不器用過ぎやねん。
ワイはあいこの骨、拾うのに耐えられへん。
せやから、先に逝って待っとる。
でもな、万が一あいこが生きてたら、そん時は宜しゅう頼むわ。
部屋は片付いとるから、心配せえへんでええ。
ああ、玉木社長は何て言うかな。一応、社長に後足で砂引っかけた事になるな。
建前ではそうなる。ワイみたいな鉄砲玉に出来るのはそん位や。
見えた。
専守防衛軍美空駐屯地。
三叉路の入り口には有刺鉄線を巻いたバリケードが張られ、機関銃を積載した
野戦車が両脇を固めていた。
高速で接近する無灯火の退廃的デザインの自動車に、哨戒の兵士達は誰何すら
忘れて射撃準備に入った。
「…そ、そこの自動車っ、直ちに停止せよ。さもなくば射撃を開始するっ!」
バリケードに設置されたスピーカーから警告のメッセージ。
まるで聞こえていないかの様に、幸治は意図的にキャデラックを蛇行させた。
発砲。曳光弾が高速で道路に突き刺さる。
尻を振りつつ、横へ回り込む。不幸な兵士にリアタイヤの跡が刻まれる。
バリケードを跳ね飛ばす。燃費重視で非力な国産車には無理な芸当だ。
まだいける!いけるで!
次の瞬間、黄色い樽状の物体がキャデラックの右フロントを大きく凹ませた。
蓋が外れてそこから水を吹き上げる。簡易式の車止めだ。衝突時のエネルギー
を大きく減殺させる効果がある。
フロントガラスが粉々になった。銃で撃たれている。
ギアをバックに入れると、親の仇とばかりにアクセルを蹴る。ハンドルは右に
切ったままだ。半時計回りに逆走し、負傷者を2人増やした。
中は、中?
ローギア、ベタ踏みで閉じられようとした門にキャデラックをねじ込む。装飾
物が大幅に壊れたが、気にしない。
次なる道連れを探した幸治が目にしたのは、高さが50センチ近くもある灰色の
コンクリート塊だった。
もう止まれない。
対戦車阻塞物に頭から突っ込んだキャデラックは跳馬の様に空中で半回転し、
廃用軌道を切断して組み合わせた物に裏返しで突き刺さった。
運転者の遺体は挫滅しており、身元確認には相当の手間が掛かりそうだった。
前話
目次
次話