美空町の或る朝






重たげな感触らしき物を全身に感じつつ、妹尾幸治は目を覚ました。
閉じたカーテンは光を湛え、柱の時計が指していたのは午前8時。
がば、と跳ね起きる、と同時に鋭い頭痛。思わず額に手をやる。
そのまま傍らに視線を移す。
在るべきものがそこには無かった。
(あ…)
いつもは隣に敷いてある少し小さな布団。幸治の一人娘・あいこが寝息を立て
ているはずのそれは、押入れの中にあった。

『ほなお父ちゃん、アタシ学校があるから先にな』
一昨日、そう言うて出てったあいこ。
いや、あいこだけやない。美空小学校6年の児童・60人が似た様に家を出て、
未だ誰も帰って来いへん。

この3日間、美空小学校の学区内は戒厳令が布かれた様な状態だった。
所々シャッターが閉じられた商店街には通信装置をゴテゴテと付けた装甲車が
陣取り、通学路の所々を専守防衛軍兵士が完全武装で立哨していた。

幸治が異常に気付いたのは、勤務が終わり車を回送させていた午後だった。
荷台に兵士を詰め込んだトラックの列と3度も擦れ違ったのだ。
(何やおかしいなあ。演習でもやるんか)
いぶかしむ間も無く、今度は交差点の信号で別の軍用トラックが前に割り込む。
(わ、危ないやないか!って、あれは?…)
幌の中には、顔を酷く腫らし両脇を兵士に掴まれていた春風渓介──あいこの
同級生で美空小学校に転校して初めて出来た友人である春風どれみの父親──
の姿があった!
「春風さん!」
思わず声を上げる幸治。渓介の方でもそれに気付いたのか、荷台から立ち上が
ろうとして両脇の兵士と揉み合う。別の兵士が幸治を睨み、幌の覆いを下ろし
て視線を遮った。
幸治は青信号でトラックが走り去り、後の車からクラクションを激しく鳴らさ
れても、しばしの間ハンドルを握ったまま呆然としていた。

車を会社の敷地に入れるや否や、所長が息を切らせて飛んで来た。
「せ、せ、妹尾、君」
「所長、どないしたんでっか?」
「と、とにかくっ、社長がお呼びだ。大至急、行ってくれ」
「は、はひっ。でも、営業日誌…」
「そんな物はどうでもいいからっ、一大事なんだ。早くっ!」
物凄い剣幕に気押された幸治は、所長にも負けない勢いで社長室へと走った。

コンコン。妹尾です、失礼致します。
社長室の扉を開けると、そこには幸治の雇い主である玉木社長が座っていた。
普段の精力的な実業家ぶりからは想像もつかぬほど憔悴した玉木社長は、幸治
に来客用の椅子を勧めると胸元から銀製のフラスコを取り出して一口あおった。
言葉も無い。
呆然としている幸治を見てか、玉木社長はフラスコを再び懐へ戻す。そして、
おもむろに口を開いた。
「今日、美空小学校の6年生が『プログラム』の対象になった」
「はあ、さいでっか」
とりあえず生返事。玉木社長の言葉を咀嚼するのに時間を──
「へ?」
「国家の『プログラム』、だよ。軍と政府によって運営される」
やや険しさを増した玉木社長。だが、その声色には哀しさが混じっていた。
「まさか、その『プログラム』にうちのあいこが…!?」
言ってしまってから激しく後悔する。あいこが対象だという事は、玉木社長の
一人娘・麗香も対象に含まれているからだ。
気まずい沈黙を破ったのは幸治だった。
「すんまへん…」
消え入りそうな声しか出ない。
「妹尾さん、一寸付き合ってくれないか?…所長には私から言っておくから…」

玉木邸は存外小さな作りだったが、造作には相当の金が掛けられていた。
「所詮は成り上がり者だからね。それに、金が有れば事業に投資するよ」
そう言いつつ褐色の液体が注がれたグラスを一息で干す玉木社長。切子細工の
デイキャンタを幸治の方へ押し遣る。
「どうも…」
手酌で飲んだスコッチウイスキーは幸治の鼻腔を芳醇な薫りで満たすと、舌の
上に奥行きのある苦味を残した。普段は居酒屋でしか飲まない幸治にも、これ
がとてつもない代物だと判ってしまった。
「──だよ」
やはりそうだった。玉木社長が口にした固有名詞は幸治の知る所ではないが、
それぞれ100パーセントの内国産業育成税と瀟洒税が科される文字通りの洋酒
なのは間違いなかった。
「妹尾さん」
酒の味どころか酔いすら吹き飛びかねない響き。
「は、はい」
「同じ立場の貴方に言うべき事ではないのだが…あの子は、麗香は優し過ぎる」
『プログラム』で生き延びるには優し過ぎる、と。
欠けた台詞を補完する内にも独白は続いていた。
「普段から矜持を持つ様に、と育てて来たせいか誤解されてるかも知れないが、
麗香は本当は優しい子なんだ…他人を思いやる、気遣いを欠かさない優しい…」

不意にあいこの言葉が脳裏に浮かぶ。
『お父ちゃんも知っとるあの玉木な、ああ見えても結構ええ奴なんよ。常日頃
をほほですわよ、て阿呆なくらい自意識過剰やけど、見えへんとこでは気配り
ちうか思いやりちうか、普通判るようにするもんやないの。そんでな、それを
指摘されるとムチャクチャ怒りよる。ホンマどうしようもない天ん邪鬼や』
上方の基準に照らしても手厳しい麗香評だったが、当のあいこは本気でそう思
っている訳ではなかった。
『でもな、そこがええねん。自分はどこまで行っても自分で、要領とかこまい
事気にせえへんで生きとる。そんでもって、他人も尊重しとる。
真似したないし、そもそも出来へんけど、アタシ等そんな玉木が好きやねん』

学校で児童会長を務めるほどになった玉木社長の娘。
彼女に的確な評価を行っていたあいこ。
あいこも又、直裁的な物言いで誤解されやすい、心根の優しい娘。
そんなあいこに幸治は親の身勝手でどれだけ苦労をかけて来たか。

挙句の果てにはこないな所まで引っ張り回して。
まるで殺す為に連れて来た様な物やないか!
あつこ、ワイはお前に合わせる顔がない。いっそ死んでしまいたいわ。

妹尾幸治が玉木邸から開放されたのは、日付が替わろうかという時間だった。
夫の様子を見かねた玉木夫人が助け舟を出したのだ。自らも娘の安否を気遣い、
心身ともに疲弊しているというのに。

帰り際、玉木社長は幸治にある物を渡した。大仰なキーホルダに付いた自動車
の鍵だ。
「私用で申し訳ないんだが、今月中にこの車を工場に出してほしいんだ。ああ、
しばらくの間シフトから外れて貰う。有給扱いで手当も付けて置く」
「あ、はあ…」
「今日明日の仕事じゃないから心配しなくていい。ああ見えても頑丈な車だし。
私には会社が…いや、何でもない」
「ほな、又…」

したたかに酔ってはいたが、帰り道で転ぶ事は無かった。月が満面の笑顔を湛
えて夜空に浮かんでいたからだ。

幸治は己の掌の中の鍵をじっと見つめていた。
社長がどの様な意図でこれを渡したかについて考えていた。
気分転換でもせい、言うこっちゃないやろ。コレは社長が道楽で乗り回しとる
米帝製のキャデラックつうゴツい車…ゴツい車!

幸治は玉木社長が別れ際に言い澱んだ台詞を回顧した。
『私には会社が…』
会社。多くの従業員とその家族。玉木社長が娘の為に投げ打つ事を許さない物。

ワイ。あいこのいない今、何の意味もない人生。
敢えて言うたる、カスやと。残滓と書いてカスと読む。
カスは生きててもしゃあない。
あいこ、お前だけを死なせへんで。

不必要に大排気量で非常識に堅牢なキャデラックなら、死出の旅路への道連れ
も期待出来そうだった。



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