無題
「誰?」
薄明かりの中で雑貨屋の様子を覗っていた人影に、
梅野ゆかり【女子4番】は用心深くウージーを突き付けた。
人影はゆかりの鋭い声に、びくっと体を震わせてから、
両手を上げて、おそるおそるゆかりの方を向いた。
そして、ウージーを持っているのがゆかりであることに気が付くと、
ほっとしたように嬉しそうな声を上げた。
「ゆかりちゃん!」
一組の春風どれみ【女子21番】だった。
ゆかりは心の中で舌打ちした。
こんなに無邪気に近寄ってこられたのでは、撃つ事もできない。
ゆかりの気持ちも知らずに、どれみは不思議そうに尋ねた。
「ゆかりちゃん、なんでこんなところにいるの?」
「加納さんとわたし、この雑貨屋に隠れてるんだ」
そう言いながら、ゆかりは顎に軽く手をやった。
「わたしは顎が痛くて眠れないから、外の見回りってわけ。
雑貨屋の中じゃ、加納さんが仮眠取ってるよ」
「一緒にいるのは加納さんだけ?」
「うん。まあ、そんなとこ、かな」
さすがに拉致している人間がいるとは言いかねて、ゆかりは言葉を濁らせる。
「じゃあ、あたし、加納さんにも会ってこようかな?」
「やめた方がいいよ」どれみの言葉に、ゆかりは首を振った。
「あの人、今、普通じゃないみたいだから。
どれみちゃんが会っても、ややこしい事になるだけだと思う」
「そうなの?」
一方どれみは、ゆかりの持っているウージー短機関銃に目を走らせていた。
あれと同じような武器を、最近どこかで見たような気がするのだ。
しかし、どれみの銃器に対する貧弱な知識では、
マシンガンなどはどれも同じように見える。
そもそも六十人の生徒に一つずつ武器が支給されているのだから、
いくらでも似た武器なんかあるだろう。
「あたしは、玉木と一緒なんだ」どれみが話を続ける。
「そうなの、あの児童会長の玉木さんと」
ゆかりは溜息をついて、どれみに同情の眼差しを向けた。
「……お互いに大変だね」
「ま、いつもの玉木でも大変っちゃ大変なんだけど――」どれみは頭を掻いた。
「――今、玉木が足にケガしてるから」
「玉木さん、ケガしてるの?」
「うん、だから手当てに使えそうな物がないか、探してるんだけど」
「手当てに使えそうな物? ……ちょっと待ってて」
ゆかりはどれみを制止しておいて、雑貨屋の中へ戻り、
しばらくすると、プラスチック製の小さな救急箱を提げて戻って来た。
「良かったら、これ持ってって。使えそうな薬を入れておいたから」
「ありがとう、ゆかりちゃん! 一生恩に着るよ!」
救急箱を抱えて飛び上がったどれみに、ゆかりは鷹揚に手を振った。
「いいよ、これくらい。
それより展望台へ戻るんだったら、早くした方がいいと思うよ」
「なんで?」
どれみの気の抜けた返事に、ゆかりは戸惑った。
「昨日の午後10時の放送、聞いてなかったの?」
「……あたしも玉木も、寝てたから」
呑気な人たちだなあ、と内心呆れながら、
ゆかりは自分の地図を取り出し、手早く説明してみせた。
「ほら、五時には、どれみちゃんが通ってきた場所が禁止区域になるでしょ?
そしたら、ぐるっと遠回りしなくちゃいけないから、
一時間や二時間じゃ、とても戻れないと思うよ」
「わかった! ゆかりちゃん、ありがとう!」
「うん、どれみちゃんも元気でね」
慌てて走り去るどれみの姿は他の建物の蔭に隠れ、すぐに見えなくなった。
ゆかりはその方角をしばらく見つめ続けていた。
「……誰かいたの?」
不意に声を掛けられて、ゆかりはぎょっとして振り向いた。
背後では加納のり子【女子7番】が、寝起きの顔のまま不機嫌そうに立っていた。
「ううん、ちょっとね」
ゆかりは曖昧に答えた。
いつ切れるかもわからないロープにぶら下がったまま、
岩壁の途中で必死に叫び続ける春風どれみ【女子21番】の姿を、
崖の上から誰かが覗き込んだ。
二組の男子、天野こうた【男子1番】だった。
どれみは力の限り絶叫した。
「助けて! 天野くん!」
もうロープを握り締める指には、感覚がなかった。
今では疎遠になってはいるが、
五年生になるまでは、天野こうたとはクラスメイトだった。
どれみが憶えている天野こうたは、正義感の強い少年だ。
よもや自分を見殺しにして立ち去るような、薄情な真似はすまい。
「吊り橋を渡ってたら、急にロープが切れて……
……お願い、ロープを引き上げて!」
こうたは、戸惑ったようにどれみの姿を見下ろしてから、
ロープに手を掛けようとした。
その時、誰かがこうたの肩を背後から掴んで引き戻した。
天野こうたと同じく以前のどれみのクラスメイトで、
今は二組にいる林りょうた【男子19番】だった。
りょうたはこうたの耳元に口を寄せると、何か囁き掛けた。
しばらくの間、こうたはどれみの姿を気の毒そうに見ていたが、
ニ、三度首を振ると、そのまま崖の上から姿を消した。
それでもどれみは辛抱強く待ち続けた。
そして、ようやく自分が見捨てられたのだと気付いた時、
どれみは愕然として声も出なかった。
なんで? どうしてなの?
ロープを引き上げてくれさえすれば、
あたしは助かるのに。
ここから落ちたらあたしは死ぬんだよ?
そんな事もわかんないの?
ロープを握り締めたまま、どれみはずるずると滑り落ちた。
掌の中でロープは赤熱した針金に変わり、耐え切れずに手を離した。
後は両手の内側を岩壁で擦り剥きながら減速し、
そのまま崖下の藪の中に落ちた。
生きていた。
全身を激しく打ちつけ、体中血塗れだったが、生きていた。
立ち上がろうとすると、右足首が鋭く痛んだ。
しゃがみ込んで、恐る恐る痛む部分を触ってみたが、
幸いなことに骨折はしていないようだ。
捻挫でもしたのだろうか?
ただの打ち身ならいいんだけど。
他人の骨折をなんとかしようとして、
自分が骨折しかかるなんてシャレにもならない。
あたしって、やっぱり世界一不幸な……
いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
早く、展望台へ戻らないと。
どれみは、これまで大事に持っていたディバックの中の救急箱を取り出した。
この中の薬、ちょっと使わせてもらおう。
少しぐらい中身が減っても、玉木も文句は言わないだろう。
救急箱の蓋を開くと、その中には梅野ゆかりの言葉通り、
治療に使えそうな品物が一通り入っていた。
消毒薬、鎮痛剤、止血帯、湿布薬にガーゼに包帯。
そして有田焼の手榴弾。
なぜその時、それを手榴弾だと一目で見抜くことができたのか、
後になっていくら考えても分からなかった。
普段なら、「変わった形の容器もあるものだ」ぐらいにしか思わなかったのかもしれない。
手榴弾のトリガーは、蓋を開くと同時に外れるようになっていた。
反射的に救急箱を引っ掴むと、手足の痛みも忘れて力の限り遠くへ抛り投げた。
地面に突っ伏すと同時に、衝撃波が大地を揺るがし、
砕けた陶器や救急箱の破片が、背中に突き刺さってくるのが感じられた。
前話
目次
次話