無題






鬱蒼と茂り昼なお薄暗かったであろう森の中、沈む夕日は長く伸びた2つの影と
その周辺を仄赤く染めていた。
「ようちゃん、これでよかったのかなあ」
万田じゅんじ【男子21番】が先を進む姉に問い掛ける。
「何言ってんのよ。じゅんちゃんが決めたんでしょ…」
三八歩兵銃を担いだ万田ようこ【女子27番】が振り返りもせず答えた。
その声が弱々しいのは重い小銃を担いで移動を余儀なくされたばかりでは無い。
机を並べた同級生へ一度ならず銃口を向け、あまつさえその一人・飯田かなえ
【女子2番】を死に至らしめたという事実が心理的に大きく圧し掛かっていた。
加えて生乾きの衣服も肉体的疲労を助長している。

万田姉弟は吊り橋が吹き飛んだ後、故意に間道を外れた。
今更、山小屋に行ったところで戦闘に巻き込まれるのは確実だったし、実際
遠くには建物か何かが燃えているであろう煙が上がっていた。
現状でそこへ行くのは自殺願望の表れ以外の何物でもなかった。
じゅんじが何処かに隠れてやり過ごそう、と提案したのも当然であった。

陽が完全に落ちてからでは移動もままならない。夜を過ごす為に一刻も早く
適当な場所を見つけて落ち着く必要があった。とは言え、全体が緩やかな下
り坂になっているだけの森の中では小屋どころか野宿に適した場所すら見つ
ける事は困難だった。
段々口数も少なくなり、ただ黙々と歩くだけの2人であった。
「あ」
何気なく小石を踏んだ拍子にようこが足をもつれさせた。朝市のオバちゃんに
も似た格好で担いでいた銃の重みはようこに姿勢の立て直しを許さなかった。
そのまま、小高くなった場所へと寄りかかるように倒れる。
「ようちゃん!大丈…」
じゅんじは夕闇に溶けかかった足元をも物ともせず、ようこの元へ駆け寄る。
右手が何か自然の産物とは思えない感触を捕らえた。
「…何だろう?」
土ぼこり──にまみれた金属の塊。もう少し探ると明らかに取っ手だと判る。
「ああっ!!」
思わずじゅんじが叫ぶ。気だるく立ち上がろうとしたようこが振り返る。
「静かにしてよ、誰かに見つかったらどうするの」
ようこは声を潜めてじゅんじを叱責した。
「で、何かあったの?」
「これ」
取っ手の周りの土ぼこりを右手で払うと、大人が屈んで通れるかどうかという
大きさの扉が現れた。
ようこは黙ってうなずき、歩兵銃を構える。
じゅんじが扉に手を掛けると、それは拍子抜けするほどスムーズに開いた。
『誰かいたのか?』
構わずそのまま入る。扉の横手に触れた何かを押すと、中が明るくなった。
実質的な広さは3畳かそこら。灯油ストーブと一斗缶、煎餅布団とその毛布。
他にも何かあるようだ。
人間のいた痕跡だけはなかった。
換気孔が穿たれたベトン(コンクリート)の壁は所々に補修の跡が見られ、ここ
が単なる廃墟ではない事を如実に示していた。

「ようちゃん」
ようこは歩兵銃をじゅんじに渡すと、一旦扉を閉める。中の光は漏れていな
かった。再び扉を開け、自らを押し込む様に中へ入り素早く扉を閉める。
じゅんじがストーブに一斗缶の中身──軍用ステンシルで『灯油』と書いて
あった──を入れようとするが、どうもうまくいかない。ようこが代わる。
部屋の片隅にはやはり軍用ステンシルで『非常持出袋』と赤く書かれた銀色
の袋が置いてあった。中には防水マッチやロープ等、武器ではないが有用な
物が詰まっていた。厚手のビニールにパックされた水も。
どうやら専守防衛軍が整備した物らしい。

2人は知るべくもなかったが、それは数十年前、大東亜共和国が固有の領土と
主張する中国大陸から「米帝及びその傀儡たる反動勢力」との武力衝突の結果
「転進」を余儀なくされた時、大陸からの空爆に備え各地に作られた防空壕の
一つだった。
当然、それが「プログラム」を進める道具として再整備された事も、ようこと
じゅんじには想像の埒外に位置していた。

「何だか知らないけど助かった」
じゅんじが気の抜けた口調で率直な思いを吐露した。
「やったね、じゅんちゃん」
ようこも莞爾として微笑む。現在の自分達に最も必要とされていた物が予期
せず得られた喜びだった。
「さあ、服乾かさなくっちゃ」

濡れた衣服を乾かすのは一苦労だった。
何しろ万田家での洗濯とは、汚れ物を洗濯機から乾燥機経由でクローゼットへと
移動する事であり、室内にロープを張ってそこへ洗濯物を干すという行為は含
まれていない。
そのせいか外套を掛けるフックを見つけてロープを張ったまでは良かったが、
それが干した衣服の重みに耐えられずに落ちてしまったのも一再では無かった。
全ての作業を何とか終えたのは1時間後の事だった。
「ふう」
万田ようこ【女子27番】は安堵の溜息をついた。これでようやく休める、と
いう表情がありありだ。が、何かを思い出したかの様に持出袋を手に取る。
「そうだ…じゅんちゃん、腕出して」
「えっ」
万田じゅんじ【男子21番】は姉の言葉に不意を突かれた。互いに肌着姿にな
っていた恥ずかしさから、自分の視線を何処へ向けようか考えていたからだ。
「怪我しているの、忘れたの?」
忘れもしない、飯田かなえ【女子2番】にナイトスティックで左上腕を殴打
されたのだ。その事が姉の手を血に染める直接の原因となったのだから。
「さ、出して」
丸首シャツも苦労の末に脱がされブリーフ一枚となったじゅんじは、ようこ
に背を向ける様に体育座りをした。下げたままの左腕、その上部は赤紫色に
染まってはいたが、大して腫れてはいなかった。
ようこは持出袋から取り出した救急セットで手際良く処置した。除菌用ナプ
キンで清拭した患部へ湿布を貼り(この時、じゅんじは大袈裟に痛がった)、
添木の代用として二重にテーピングを施す。
「終わったわ」
「…ありがとう、ようちゃん…」
動かすとまだ少し痛いけど、重い物さえ持たなければどうにかなりそうだよ。
「ようちゃん」
「なあに、じゅんちゃん」
「もう、寝ようか。明日に備えなきゃ…」
「明日…あ、ええ、そうね。じゃあ電気消すわ」

入口のスイッチへ向かいながら、ようこは『明日』について考えていた。
明日。
確実に誰かの血が流れる。そうでなければ“ルール”によって皆、死ぬ。
わたしも、じゅんちゃんも。
ようこの手が首──に掛けられた装置──に触れた。
照明が消える。じゅんじの影が防空壕の壁にストーブの炎で照らされた。


石油ストーブを着けてから1時間半、さほど広くない防空壕の中は程々に暖ま
っていた。が、毛布も寝巻も無い状態ではまだ少し肌寒い。
ようこもそれを自覚している物の、湿った布が肌にへばり付いている感触だけ
はどうにかしたい。結局、下着も脱いでロープに干してしまった。
弟が半分占領している煎餅布団の残り──ストーブ側へと寝転がる。
「ようちゃん」
不意にじゅんじが喋った。
「なあに、じゅんちゃん」
「何か、寒い」
不平を洩らしてじゅんじが寝返りをうつ。あれ、ようちゃん服着てない…
顔と顔が向き合う。何とは無しにじゅんじが顔を赤らめているのが判る。
「きょうだいでしょ。別にいいじゃない」
「…」
「それとも、お姉ちゃんの身体に何かついてる?」
口に出してしまってから、ようこは『お姉ちゃん』という言葉にある情景を
重ねていたのに気づいた。


5年生になって間もないある日。
いつもの様に連れ立って登校していた2人は、途中でじゅんじのクラスメイト
である1組の春風どれみ【女子21番】と出会った。そのどれみに新入生らしき
少女が駆け寄って来る。その少女はどれみに雰囲気が良く似ていた。
『おねえちゃんっ!』
『あ、ぽっぷ』
ぽっぷ、と呼ばれた少女は怒った様な顔でズック製の袋を差し出した。工具
袋だ。技術立国たる大東亜共和国では、小学校高学年から男女を問わず工作
の授業が設定されている。当然、料理や裁縫と言った家事全般を学ぶ家庭の
授業も男女分け隔てなく行われている。
『これわすれたでしょー。明日は工作の授業だなあ、っていってたじゃない。
 こんなんじゃまた“どじみ”っていわれちゃうよ、おねえちゃん』
『ごめんね、ぽっぷぅ〜。世話の焼けるお姉ちゃんでねぇ〜』
どれみはぽっぷを抱き寄せ、ぐりぐりと頬を押し付ける。
微笑ましい光景だった。
『ねえ、ようちゃん。ようちゃんも“お姉ちゃん”って呼ばれたい?』
じゅんじが悪戯っぽく聞いた。その屈託の無い表情にどきん、とするようこ。
照れ隠しにじゅんじの額を指で突付く。
『やあだ、じゅんちゃん。あたし達一緒に生まれた仲じゃない』

「お姉ちゃん、じゅんちゃんを守ってあげるからね」
ようこはとてつもなく重い意味を持つ言葉を、息を吐くかの様に口にした。


「え…?」
思わず起き上がるじゅんじ。意識しない様に、と意識している変化があった。
ようこも同様に身を起こし、両手をじゅんじの両肩に乗せる。両眼を覗き込
む格好となった。
「あたし知ってるよ。じゅんちゃんがお姉ちゃんのでしてた事」
そして、ようこは汚された物をこっそりと持ち帰り、枕に顔をうずめながら
指を濡らした事も口にした。思い余って、ゆき先生に相談した事すら。
「ゆき先生は異性のきょうだいが居る人は誰でも通る道だって言ってた。
 でも!
 あたし達はもう2人一緒には生きていけないの。だったら…」
はらはらと涙を流すようこ。じゅんじの唇が濡れた頬に触れる。
「ぼくがついているよ、お姉ちゃん」
無理のある言い回しを聞いたようこは、無理に笑顔を作ってみた。様になら
ないのは判っている。
「あ」
「え?」
ようこの右脇腹の傷を見つけた。軍用ボウガンの矢の先で少し引っ掻く様に
つけられた傷だ。大した物では無い、もうカサブタが出来ている。
「痛かった?」
ようこが首を振る。つば付けときゃ治るわよ。
「じゃあ、ぼくが舐めて治してあげるよ」
言葉通りの行動を取ったじゅんじ。
ようこは次に弟が取るであろう行動がやり易い様、両脚を少し開く──

暫くの間、防空壕を破瓜の呻きと背徳の喘ぎが支配した。

翌朝、一足先に目覚めたようこは、額に汗を浮かべているじゅんじの寝顔を
見てこう誓った。

お姉ちゃんが生きている限り、じゅんちゃんを守ってあげる。
最後に2人で生き残ったら、お姉ちゃんが死んであげる。
でも、もしじゅんちゃんが死んじゃったら──

お姉ちゃんが必ず、じゅんちゃんを産んであげる。

或る種の凄絶さすら思い起こさせる微笑を浮かべ、ようこは自分の下腹部を
愛しそうに撫でていた。


コンクリートで造られた援退壕の中は、石油ストーブの熱気と乾いた衣服から
出た湿気で暑さすら感じる程だった。実際、目が覚めたのもそのせいだった。
大して広くも無い煎餅布団で隣り合わせに眠っていた裸身──といっても、
例の首輪がついている──も、それを証明する様にうっすらと汗ばんでいた。
ひるがえって横向きのまま、やはり全裸である自らの身体を見下ろす。
そこには胸や下腹部を中心に夥しい数の欝血した跡があった──

果たしてそれが聖痕なのか、烙印なのか、今の彼女には判らない。



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