無題
狭く、暗い部屋だった。
薄く積もった埃に覆われ、長く人の手が入っていないと一目でわかるほどに古びたその部屋は、
四方を打放しのコンクリートに囲まれて、ひどく息苦しい印象を与える。
鋼鉄製の扉が閉め切られたその様子は監獄に近い。
その監獄の如き息苦しい部屋の中央に一つだけ置かれている、辛うじて家具と呼べるものが、
罅の入った壁面から崩れ落ちた小さなコンクリの欠片と得体の知れぬ羽虫の死骸を
押し退けるようにして設置された、大きな木製の机と粗末なパイプ椅子である。
机の上には、周囲の様子からはひどく不釣合いな物が置かれていた。
三面式のモニタとスピーカー、それらを操作するためと思しきキーボードである。
そしてまた椅子の上にも、その部屋の中ではひどく異彩を放つものが存在していた。
男である。
高級な仕立てのスーツと白いコートに身を包んだ、西洋人の中年男性。
ぎょろりと剥いた三白眼がせわしなく動き、何か書類のような物を一心に読み耽っている。
読み進む内、長い口髭を蓄えたその表情がだらしなく緩んでいく。
「―――エ〜クセレ〜〜ンツッ!!」
叫んだ男の名を、カールという。
***
カール、本名は不詳である。
世界各国の組織を相手にした武器密売、いわゆる死の商人を生業としていた男だった。
その商材は手広く、銃器・弾薬から防弾服、暗視ゴーグルといった個人用の装備から
全盲の人間に対する工業的な視覚再建技術といった特殊医療処置の斡旋、果ては
ミサイル装甲車の密輸入までを手掛けていた。
超大国から紛争地域まで全世界にパイプとコネを持った優秀にして狡猾な商人であり、
そしてその全てが、過去形であった。
―――エクセレント!
心の中でもう一度、快哉を叫ぶ。
裸電球が吊るされただけの簡素な照明の下、彼が目を通していたのはそれなりの厚さをもった書面である。
そこに記された文字列の一つ一つがカールに与えていたのは途方もない安堵と、そして優越感だった。
カールが死を決意したのは、彼自身の時間認識にしてつい数時間前のことである。
数時間前、彼は一つの仕事で些細な失態を犯した。
日本の首都・東京に存在する某大企業へのミサイル攻撃。
ideal―――アイデアルと呼ばれる犯罪組織の大掛かりな利益が絡んだ依頼であったが、
様々な不運と計算外の事態が重なった結果として、彼はミサイルの射撃に失敗した。
何しろ相手は各国の反政府組織やゲリラの資金運用を生業とする巨大組織である。
その依頼に失敗し、彼らの計画に支障を来したとなればまず間違いのない死が待っていた。
単に射殺されるだけならまだいい。しかし拘束され組織の綱紀粛正のための見せしめとされれば、
どれほど凄惨な死を与えられるか想像もつかない。
それを苦にしての決意、自殺への逃避行である。
莫大な利益とコネ、そして相反する極大のリスクを孕んだ賭け―――彼はその賭けに負けたのだった。
―――それが、どうだ!
そう、数時間前のカールは、紛れもない敗者であった。
しかし今の彼は違う。
敗者を見下ろし、蹂躙する側の人間であると、少なくともカール自身は考えている。
その根拠こそが手にしている書面、彼に支給された物品のうちの一つである。
それは数枚の図面と、そこかしこに書き込まれた記号。
そして幾つかの機器の使用方法についての、詳細な説明書であった。
「―――私は選ばれたのだ!」
思わず口にしながら、説明書の通りにキーボードを操作する。
薄暗い部屋の中に、新たな光が灯った。
起動した三面式のモニタが映し出すのは、しかし黒一色に近い画面である。
ぼんやりと映る輪郭が、かろうじてどこかの部屋の様子を投影しているのだと示していた。
数秒の後、画面が切り替わる。
暗い廊下。静まり返っている。
また切り替わる。今度はまたどこかの部屋。
モニタの中の映像は、定期的に切り替わっていく。
それをちらりちらりと眺めながら、カールは手にした書面に目を落とす。
記載されている図面と、モニタの中の画像を照らし合わせるように。
何度目かの切り替えの後、カールが満足げに頷いて、笑った。
ぱん、と軽く手の甲で叩いた図面には、彼自身が今座っている部屋の位置が記載されている。
七階建てのビルディングの、五階。
その一角にある小部屋であった。
ぱらぱらとページを捲れば他の階の図面も見える。
それぞれの図面に書き込まれた記号は、無数に仕掛けられたカメラの位置。
そして、それに倍する数の、トラップである。
狭い廊下に仕掛けられた、迂闊に触れれば骨まで容易く断ち斬れる鋼鉄のワイヤー。
逆にワイヤーを切ることで作動する小型の爆弾。
その他、大小さまざまな罠の数々。
その詳細な位置と種類が、びっしりと図面には書き込まれていた。
「ハッハッ、私の能力と人脈―――賭郎にも必要、というわけだ」
かつて狂気に駆られた傭兵が飼い馴らした凶獣を解き放ち、哀れな獲物を追わせた廃ビル。
その似て非なるレプリカの中心部こそが、カールの居座る小部屋である。
己は監視者である、とカールは考えていた。
この下らない、しかしいかにも賭郎会員の好みそうな悪趣味の極みのような催しの、
哀れな参加者が死へと誘われていくのを見守る、そういう役目の人間。
それこそが自身である、と。
「クク……こんなものまで私に預けて……」
そのことを確信させたのが、彼に支給されたもう一つの物品。
傍らに置いたデイパックから取り出したそれを、しげしげと眺める。
橙色に透き通った、片手に収まる大きさの球。
中には五つの星型が刻まれている。
五星球と呼ばれる、それは集めた者の願いを叶える神具―――ドラゴンボールの一つであった。
「これがある限り、愚かな連中は私を目指して上がって来ざるを得ない……」
そうして無数の罠にかかって死んでいく。
まったく悪趣味な話だと溜息をついて、カールが残忍な笑みを浮かべた。
口の中でもう一度、エクセレント、と呟く。
アイデアルに殺されるか、自殺を選ぶかの瀬戸際で賭郎に拾われるとは、まったく自分は運がいい。
そんな風に、考えていた。
***
無論、全てはカールの勘違いである。
彼はただ他人と少し違う形でスタートを切っただけの、一参加者に過ぎなかった。
九死に一生を得たという安堵と、自身の能力に対する過大な評価が、彼の妄想を助長していた。
その勘違いで幾つもの重要な事実を、彼は見逃している。
彼に支給されたのは廃ビルの管理権などではない。
トラップの位置と種類を示した図面と、モニタの説明書である。
罠の解除の方法など、どこにも記載されていなかった。
無数の罠に守られた彼は、同時に無数の罠に囲まれている。
それは、彼自身に一切の行動の自由がないことを示していた。
賭郎に選ばれた管理者のつもりでいる彼は、だからひどく素朴で重大な、思い違いをしていた。
即ち、この廃ビルを含むエリア―――E−8が禁止エリアから除外されることなど、ありはしない。
もしも誰か、真の管理者の気まぐれか、或いは運命の神の底知れぬ悪意でこのエリアが禁止区域と
指定された瞬間、彼にとって死へのカウントダウンが開始されることなど、今のカールにとっては
まるで思考の埒外であった。
カールは一参加者である。
彼と同様に死の淵から救われ、狂気の賭けに乗った老人と、実際のところ何ら変わらぬ。
彼らを分かつのはその妄想の方向性であり、そしてまた彼らをして根を同じくさせるのは、
その妄想に取り憑かれ肥大した自我であった。
彼らを蝕み、そして彼らの中で増殖され撒き散らされる妄想と狂気とが、影の如く密やかに、
しかし疫病のように確かな足取りで、惨劇の島を覆い尽くそうとしていた。
【E-8 廃ビル/一日目深夜】
【名前】カール@嘘喰い
【状態】健康
【装備】なし
【持ち物】ディパック(基本支給品一式)
廃ビルの罠図面、モニタの説明書、ドラゴンボール(五星球)
【思考】0:私は賭郎に選ばれた! エクセレント!
1:ドラゴンボールに誘われて廃ビルにやってきた参加者の死を眺める。
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