第一話
目覚めると、何時もと同じように、異郷の『見慣れない天井』が見えた。
ぼんやりとそれを眺めながら、自分が覚醒してゆくのを感じる。
徐々に思考がはっきりとしてゆくなか、突然、それに気づいた。
その天井が、昨日までの宿のそれとは違っていることに。
思考回路が急速に立ち上がる。
それにより生み出された熱と、危機感と不安が生み出す冷気が、頭の中で混ざり合う。
まだ眠ったままの四肢を叩き起し、すぐさま周りの状況を確認する。
――ここは、何処だ?
そこは、代り映えのないちいさな部屋だった。
まるで煤けたホテルの一室のような、窓もなく小汚い部屋。
薄汚れた机に、自分が眠っていた粗末なベッド、そして壁にはドアが一つ。
それらは元はそれなりに価値のありそうではあったが、明らかに手入れ不足だった。
薄くほこりが積もり、金属部分には錆が浮かぶ。アンティークを通り越してがらくたの域だ。
謂わば、数十年前に打ち捨てられたホテル……とでも言えそうな内装だった。
しかし、壁は冷たいコンクリート製。その点だけはホテルには似つかわしくない。
廃墟となった病院の特室病室……と言ったところだろうか。
しかし、どれだけ自分の記憶を辿っても、自らこの部屋に入ったという記憶がない。
記憶が混濁している。暗く汚れた海中に居るような不安が部屋に滲みだしていた。
――何が起こったのか?
幾つかの可能性が浮かんでは切える。
何者かに誘拐された? 何かの事件に巻き込まれた?
一体誰が? 警察機関? 地元のチンピラ?
マフィアか? ネオナチの類か? どこかの国の秘密警察か?
……それとも、彼?
無数に浮かんだ可能性の数々。
何者かに自分が誘拐され得るかどうか?
……恐らく、その答えは『YES』だろう。
思い当たる節は幾つかある。
だが現段階で結論を出すことは不可能だった。
判断材料が無さすぎる。
先ずは現状を確かめなければならない。
まず最初に、自分の体に異常がないか確認する。
頭部、体幹、四肢、何れにも異常は認めない。
若干の悪心と倦怠感が有るが、これはもしかすると何かしらの薬物によるものかもしれない。
自分を薬物により昏睡させ、誘拐した……その可能性は否定できない。
そして、自分の体には一点だけ異常があることに気づく。
首輪だ。
自分の首には、滑らかな一個の首輪が嵌められていたのだ。
かまぼこ型の金属棒を輪にしたような構造……と言えば良いだろうか。
その首輪が、自分の首に密着している。
呼吸などに支障は無いが、ひやりとした感覚がその存在を主張する。
一人の人間を拉致し、首輪を嵌める。
この異様な事象の繋がりから、言いようの知れない狂気が感じ取れた。
次に、自分の胸元を確かめる。
これが追剥に類するものならば、自分の持つ僅かな貴重品類が無事かどうか?
だが、悪い予想とは裏腹に、懐の物々に変化は無かった。
僅かな金銭、身分証の類、自らを守る機器。
それらは何一つ欠けることなく、懐に収まったままであった。
また、室内を見渡せば、自分の手荷物類もベッドの傍に置かれている。
中を確認してみたが、とりたて何かが無くなっていると言うわけでもなさそうだ。
盗まれたものが無いことに若干の安堵を得る。
だが同時に、奇妙な違和感が湧き出した。
少なくとも金目のもの目当てに誘拐したのでは無いとしても、あまりに不用心すぎる。
誘拐した人物を、縛りもせず、懐も改めないままに放置するとは、不用心を通り越して作為的ですらある。
一体何のために? 全く目的が見えない。
――ピー、ピー、ピー、
思案に暮れる中、突如部屋の中に電子音が鳴り響いた。
見れば、ベッドの傍、木製のテーブルから音は発せられているようだ。
テーブルの上には、電卓程の大きさの、板状の電子機器が置かれている。
どうやらこれが電子音を発しているようである。
トランプの絵柄が表示された液晶画面。
それを手に取ると、その拍子に電子音が鳴り止んだ。
どうやら、この電子機器はPDA (personal digital assistant.)と呼ばれる類の物で、
側面と底面にいくつかのボタンが配置されている。
どうやらこれはタッチパネル方式の操作も可能の様であり、音が止んだのは、画面に触れたせいであろう。
その証拠に、画面に何やら新たに文字が表示される。
『ルール・機能・解除条件』
――? 何だ、これは?
疑問の答えを探るべく、液晶に浮かぶ文字をなぞったその時。
――! 誰かが居る!
部屋の外に、何者かの気配がした。
何者かが歩く気配。それも、こちらに近づいてくる。
思わず懐に手をやり、唯一の出入り口であるドアを睨む。
恐らく、自分をここに連れて来た人物、若しくはその仲間であろう。
それが、自分に一体何の目的で?
対話? 情報収集? 拷問? それとも――殺害?
相手の真意が全く読めない現状では、対応の一手一手を慎重に行わねばならない。
手を誤れば、即ちこちらの生命に危険が及ぶ場合すらある。
気配が、ドアの前で止まる。
ガチャリ。
ドアノブが回る。
全身に緊張が走る。懐に入れた手に力が籠る。
鈍い音とともにドアが開き、現れたのは――
「……日本人、か?」
「ええ、まあ、見ての通り。あなたも?」
現れたのは、誘拐などの荒事とは無縁そうな、一人の青年だった。
身なりのいい、いかにも裕福なアジア系の大学生、といった風貌。
流暢な喋り方と言い、彼が日本人というのは間違いではないだろう。
そして、少なくとも目につくような武器や拷問具の類は持っていないようだ。
だが、まだ油断は出来ない。
「君が私をここに連れて来たのか?」
単刀直入に、そう切り出す。
すると青年は最初にきょとんとしたような表情を浮かべた後、困ったように答えた。
「まさか。僕はあなたが僕を攫ったのだとばかり考えていましたよ」
「……君が私を疑うのと同様に、私も君の言葉をそのままに信じる訳にも行かない」
「疑り深い人だ。まあ、お互い様ですがね」
青年は苦笑いをするように顔を顰めると、不意に顎を上げた。
「では、これが証拠になるかどうかは分かりませんが……
少なくとも、貴方と同じ境遇だという証明にはなりませんか?」
青年の頸には、鈍く白い光を放つ金属の塊が見て取れた。
そう、自分の頸に嵌っているものと同じ。
その時になってやっと、彼が自分を拉致監禁した者の仲間ではなく、
拉致監禁された自分と同じ境遇の仲間である可能性に気が付いたのだった。
「まだ疑いは晴れませんか? できればもう少し、話だけでも聞いて貰いたい処なのですが……」
「分かった。君の話を聞こう」
「では、先にその懐の“銃”から、手を離して貰えませんか?」
――!
体がびくりと硬直する。
「……矢張り銃を持っているたんですね」
見透かされている。
隠そうとしていた訳ではない。
寧ろ、自分に危害を加えようとする相手を威嚇する意味合いが有った。
だが、確かにこの状況下で、自分と同じように拉致監禁されている者が居たならば、
銃を持って威嚇する自分こそが拉致犯の一味と考えられてもおかしくは無い。
少なくとも、真っ当な身分の者とは思われないだろう。
青年が自分に危害を与える素振りが無いことを確認し、私は懐の銃から手を離した。
「すまない。脅かすつもりは無かったが、何分状況が状況だった」
「そう……ですね。銃を持っている事は見過ごせませんが、状況の確認を優先させて頂きます」
青年はドアを閉め、部屋の中に備え付けてあった椅子に腰かける。
その所作は、銃を持っている者を相手にするにしては、やけに落ち着いているように見えた。
「話をするにあたって、先に名前を聞かせて居ただけますか?」
「……」
答えられなかった。
彼が知っている可能性は否定できない。
日本でも報道されている可能性があるからだ。
銃で怯えさせた上に、自分の名を名乗る事は出来ない。
「ああ、失礼しました。先にこちらが名乗るべきでしたね」
私の内心を気づいているのか居ないのか、
青年はその名を名乗った。
落ち着き払った、その声で。
「僕の名前は 夜神 月。警察関係の仕事で働いています」
その自信にあふれた、だがどこかに冥さを感じさせるその顔は、正に彼を彷彿とさせた。
外見が似ているわけではない。
だが、どこかが似ている。
そう、彼――ヨハンに。
「出来れば自分で名乗って頂きたかったですよ。はじめまして、Dr 天馬」
夜神月は、そう言ってこちらを見る。
睨んでいる、といっても差支えは無い。
それも仕方はあるまい。私は指名手配犯。
連続殺人事件の容疑者として追われている身なのだから。
【天馬賢三@MONSTER 残り69:30 生存】
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