オープニング






「いたた・・・・・・」
目が覚めると同時に、体中に痛みが走った。
いや、痛みによって目が覚めたと言ったほうが正しいのか。
磯野カツオは、首筋から腰まで走る鈍痛に顔をしかめながら、周囲を見回した。
「ここは・・・・・・? 」
「気がついたかい、カツオ君!! 」
見慣れた顔が、自分を見下ろしていた。
姉婿のマスオさん。いや、本当は婿じゃないんだけど。
でも、なんでマスオさんが僕の部屋に? 寝坊したんで、起こしに来てくれたんだろか?
そんな少年の呑気な疑問はすぐに氷解する。
「ここは・・・・・・」
そこは自分の部屋ではない。
おそらくは、陸地ですらない。
自分の体が部屋と共に揺れているからだ。
少年は、その段階でようやく思い出した。
「そうか・・・・・・僕達は、姉さんが福引で当てた豪華客船での食事会に出かけて・・・・・・」
普段はとても食べられないような豪勢な食事を食べて、その後船の中を探検してやろうとホールを出ていったんだったっけ。
何しろ、こんな豪華客船なんか、もう一生乗ることはないかもしれないから・・・・・・
だけど、その後で「何か」が起きたんだ。
僕はそれで壁に体を打ち付けて、気を失ってしまった。
「ねえ、マスオ兄さん」
少年は、痛みに顔をしかめながらも口を開いた。
「何が起きたの? もしかして、高波とか? 」
マスオは答えなかった。その代わりに、無言でそばにあったラジオのスイッチを入れる。
流れてきたのは雑音だった。しばらく黙って聞いているうちに、雑音に混じってはっきりとした音声が聞こえてきた。

「――――九日午後5時に横浜を出向したリディクリサニア号は、今日午前零時過ぎに消息を絶ち、――――
海上保安庁では同船が何らかの事故に巻き込まれた可能性も―――
―――なお、乗員乗客2400名の安否は不明ですが、絶望視する見方も出ています。次に、――――

マスオは、険しい顔でカツオの顔を見た。
何度となく、テレビやら新聞やらで見聞きしたことのあるニュース。
でも、今回に限っては人事で済ませることなんか出来るはずが無かった。
なぜなら、この船の名前は・・・・・・
「マスオ兄さん、これってどういうこと? 」
「そんなこともわからないのかね、君。落ち着いて混沌の欠片を再構成してみたまえ」
しわがれた老婆のような声が、カツオの疑問に答えた。
はっとしてその声のしたほうを見ると、ちょうどカツオの寝かされているベッドの反対側に一人の少女がいた。
人形のような整った顔立ちに、目を疑うほど長い金髪。やたらとフリルがついた服に、何故か似合っているくわえパイプ。
年上がタイプなカツオですらも思わず見とれてしまうほどの美少女だった。
その美少女は、いかにもつまらなさそうな顔をして続けた。
「我々は遭難したんだよ、君」
「そ、そんな馬鹿な!! 」
カツオは思わず、痛みも忘れて上半身を起こした。
「だって、全然いい天気だったじゃないか!! 」
「別に気候条件が良好でも遭難することはあるさ。船の操縦が出来なくなったらそれだけで遭難だろう。
今回の場合は、どうも何かに衝突したことが原因らしいがね」
そう言って、口から煙を吐く少女。
「カツオくん、彼女は気を失ってた君を見つけてくれたんだよ」
マスオが口を挟んだ。
「え・・・・・・君が? 」
「別に礼を言う必要は無い。私は君の家族を探してきただけで、君をここまで運んだのは片手がフックになってる男だ。
その男はさっさと姿を消してしまったがな」
少女は心底退屈そうな顔で言った。
「でも・・・・・・一応、お礼を言っとくよ。でも、僕らが遭難したってどうしてわかるんだい? 」
「何、君も外に出てみればわかるさ。実際の問題として、この船は沈んでいるんだ」
「な・・・・・・」
カツオはあわてて窓の外を見る。が、何も変わったところは見つからない。
「カツオくん、本当なんだ。この船は、明らかに沈んでいる。それどころか、一度転覆したんだ。その後元に戻ったけど・・・・・・
多分クジラの群にでもぶつかったんだろう。何より、一番下の階が、水に浸かっているんだ。そこは整備室だけどね・・・・・・」
普段だったら「何も心配しなくていいよ、カツオくん」なんて言ってくれるはずのマスオも、そんなことを言う。
(そんな・・・・・・馬鹿な・・・・・・)
ウソだろ? ついさっきまで、豪華な船の旅を楽しんでたのに・・・・・・
「で、でも、もし本当に船が沈んでいるんなら、避難を呼びかける放送なんかがかかるはずだよ!! 」
「それがないから、厄介なんだよ、君」
少女が、相変わらずパイプをくわえながら答える。
「本来なら、すぐにでも放送で避難指示がかかるはずだ。緊急避難用のゴムボートとかに乗客を乗せるためにね。
しかし、今回はそれが無い。ここから推測できる状況は大まかにいって二つだよ。
乗員が全員すでに死んでしまったか、あるいは乗客全員を避難させられない事情があるか、だ」
「全員を避難させられない理由? 」
今度はマスオが反問する。
「思うに、今回の船旅の主催者はまともに緊急時の対策をしていなかったんじゃないかな。
例えば、人数分のボムボートを用意していなかったとか」
「そうか、だとすれば、放送で避難経路を指示したりしたら大混乱が起こるかもしれない」
「いや、暴動が起こって船員は海に投げ落とされるだろうね」
そんな・・・・・・この少女は、なんでこんなことを淡々と説明できるのだろう。
だって、すでに船は沈んでいて、なのにボートは人数分無くて・・・・・・
カツオは、生まれて始めて「絶望」という感情を知った。
「さて・・・・・・それじゃあカツオくん、歩けるかい? 」
「うん、もう平気だけど・・・・・・」
「じゃあ、サザエやお父さん達を探しに行こう。みんな、きっと無事なはずだから」
そう言って、明るく微笑むマスオ。しかし、カツオは笑えなかった。
マスオのその表情は偽りであると知っている。
たとえみんなと出会えたとしても、全員が生きて帰れるような保障なんかどこにも無い。
「そっちの君も、一緒に来るかい? 」
「そうだな。私は特に探す人はいない。まあ一人知り合いみたいな者はいるがね・・・・・・
でも、他人を探すのに時間をかけすぎて自分が逃げられなくなっては本末転倒だ」
彼女は長い金髪を揺らしながら立ち上がった。
「私は、3時間以内に君たちの知り合いとやらが見つからなかったら脱出する。それでいいな? 」
「ああ、いいとも。僕は家族全員を見つけるまでは帰らないけどね」
マスオも少女も、自分たちが逃げられることには絶対の自信を持っているようだ。
それが、カツオには不思議だった。
ここには希望なんかないのに。
ただ、わずかな「確率」があるだけだ。
数分の一か、数十分の一か、わからない「確率」が。
「いつまでも『君』なんて言っていてはわかりにくいな。僕はフグ田マスオ、こっちは義弟のカツオくん。君は? 」
「ヴィクトリカと読んでくれればいい」
少女はファーストネームのみを名乗った。



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