無題






果たして彼の人生の中でこんなにも走ったことがあったであろうか。
恐らく彼本人には「走った」という自覚は無いであろう。「駆けた」と言ったほうが適切かもしれない。
まぁこの展開上どちらでも彼には関係の無いことなのだが、事実として彼はかなりの距離を移動したことになる。
夢中で彼が行き着いたところ、それは大きな湖だった。
湖水はとても青く澄んでいて、底まで透き通っているかのようであった。
彼はその湖のほとりに座り込むと、両手で顔を洗い始めた。
まだこの耳に残っている、友の最後の叫び。
この身に誓った、果たすべき決断。
目を閉じるとそのことが繰り返し彼の頭をよぎる。
顔を洗い、うつむいたまま目をゆっくりと開ける。

湖面に写った自分の後ろで、青い鎧を着込んだ騎士が私の喉にナタを突きつけていた。

「少しの間でいい、私の願いを聞いて欲しい」

このような出会いが彼の身に降りかかることは、決して幸運ではなく、彼自身の決断、生き方、
そのようなものが少しづつ運命の糸を引いている故なのかもしれない。
私は男に促され身を起こすと、そのまま脇の茂みへと案内された。
先ほどから表情は変わらない。まるで岩のようである。

そこには、ピンク色の鎧を着た女騎士が横たわっていた。
どうやら手負いの身らしい。爆発でやられたらしい腹部からは、とめど無く血があふれ出している。
私はとっさに自分のディバッグから全員持っているはずの痛み止めを取り出そうとするが
彼女は微笑みながらゆっくりと首を横に振った。

「もう喋る事すらできない。恐らく後1時間程だろう。」

男は冷静に、いかにも感情を押し殺したような声で呟いた。
だが今度はその表情から自分とはまた違った、決断の色がはっきりと見て取れた。

「頼みというのは、私たちの最後を・・・見届けてほしいのだ。」

どんな願いであれ、私の答えは彼の表情を見たときからすでに決まっていた。

「・・・解りました。」

「無理を言ってすまない、礼を言う。私の名は騎士ポポロン、それと妻アフロディテだ。
何も理由を聞かずに願いを聞き入れてくれたことに、騎士として感謝する。」

ポポロンは懐からペンダントを取り出すと、私に手渡した。
中には小さな子供の絵が入っていた。

「それは君が好きなところに投げてくれ。できる事なら、眺めの良い所にしてくれると有難い。
あとこれは、私たちの世界には無かったものだ。君なら有効に使えるかもしれない。」

そう言って彼は小さなリモコンのようなものを私の手に握らせた。
ポポロンはアフロディテを抱き上げると、そのままゆっくりと湖に向かって歩き出した。
湖は先ほどにも増して澄んだ、冷たい輝きを放っていた。

「最後にもう一度礼を言わせてくれ。少しの間だったが君と出会えてよかった。
この島には死と絶望が満ち溢れているが、同時に希望も少なくない。
私たちはその弱さゆえ自ら命を絶つが、君には強さがある。決して屈しないで欲しい。」

二人は一歩、また一歩と湖に近づいていく。足元が水につかり始める。

ここで彼はふと思い出す。彼らは・・いや、「彼」は・・・確か・・・水に・・・・。
するとその心を見透かしたかのように、腰まで水に浸かった騎士は振り返ると、微笑みながら言った。

「大丈夫。私の体力は十分にあるよ」

その言葉を最後に、二人は見つめあいながら湖上から完全に姿を消した。
彼は思い出す。確かポポロンは水に弱く少しの間しか水中に入れないが、アフロディテは長く耐えられたはずである。
しかし彼女は傷を負っている。すると二人が息絶えるのはほぼ同時であろう。それを計算した上でポポロンはこの場所を選んだのだ。

妻を愛するが故の決断、己が運命に挑戦するための決断、友に報いるための決断。
そしてポポロンの言った「希望」。そのどれもが1つに繋がるように思えた。

しばらくその場にじっとしていた彼は、彼の置いていったナタを地面に突き刺すと
周りに花を添えた。そうした上で砂で塚を作った。
彼らは湖の底で永遠に愛し合い続けるのであろう。それはこの島に連れてこられてしまった二人にとって
望むべく最後だったのかもしれない。

するとそこに一匹の白鳥が舞い降りてきた。その拍子に白い翼が一つ宙を舞い、彼の手のひらに落ちてきた。
彼はその翼を見つめると、ゆっくりと白鳥に近づいた。

「ありがとう、お礼にこれを持って行ってくれ」

そういって彼はペンダントを白鳥の首にかけた。白鳥は嫌がるわけでもなく動かなかった。
そして空からもう一匹白鳥が降りてくるのを確認すると、彼はなんだか照れくさくなり後ろを向いて歩き出した。
そのまま彼が空を仰ぐと、2匹の白鳥が真上を通って大空に舞い上がっていった。

「眺めのいいところ、か・・」

彼は立ち止まり、白鳥たちの行く末をじっと見つめていた。彼方に消え見えなくなってもしばらくは動かなかったが、
やがて小鳥の声が聞こえてくると、彼は思い出したように歩き出した。
青空は果てしなく広がり、湖は青々と湛えた水にいつまでも空を映し出していた。


【「大魔司教ガリウス」 ポポロン、アフロディテ 死亡】



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