♭
「どうして…」
真っ暗闇の中、囁かれたその言葉は、耳の奥に溶け込んで、消えた。
はて、誰の声だっただろうか。
私は声帯の主の分析を開始する。
高校の友達?いや、私たちが通っているのは女子高で、今の声は明らかに男のもの。
必然的に、高校の知り合いという一つの選択肢が消えた。
だとすると、小・中学生時代の知り合いか何かか?
…ううん、違う。彼の声は、ごく最近の記憶として、鮮烈に脳裏に焼きつけられている。
では、この人は誰?
「どうして…」
それにしても、要領を得ない言葉だ。
いったい何がどうしてなのか。どうして何なのか。
言いたいことが分からないし、心当たりさえ微塵も無い。
「どうして…」
先刻から彼は、"どうして"だけを私の耳元で反芻する。
もしかして私をからかっているのか?
「どうして……も………た」
なるほど、まだ言葉には続きがあったのか。
だが途中途中が虫に喰われていて、正確に聞き取ることはできない。
「どうして…もた…て……かった…すか」
……え?
「 ど う し て 誰 も 助 け て く れ な か っ た ?」
ああ、そうだ、この声は。
気付けば目の前に、頭の無い少年が佇んでいた。
私はその場から逃げるように、凄まじい速度で両足を繰り出し始める。
「どうして誰も助けてくれなかったんですか?」
白い空間の中、犠牲となった少年。
命の終焉をカウントダウンする首輪の音。
助けを懇願するような二つの瞳。
誰かの背中に隠れて、目を逸らした自分。
「どうして誰も助けてくれなかったんですか?」
どれだけ走っても呪縛を解いてはくれない少年の声。
網膜に焼きつけられた少年の頭。
「どうして誰も助けてくれなかったんですか?」
……ごめん、でも仕方なかったんだ!
「どうして誰も助けてくれなかったんですか?」
……どうせ私にはどうすることもできなかった!
「どうして誰も助けてくれなかったんですか?」
……違う、違う、止めて、止めて!
恐怖から守るように、現実から逃げるように、耳を塞ぎ、目を閉じた。
それでも尚少年の幻像は、どうしてどうしてどうしてと、語りかけてくるのである。
□ □ □ □ □
「…ん」
現実へと堕ちた意識が、秋山澪の目を最大限に見開かせた。
更に瞳孔を見まごうばかりに引ん剥いて、身体はそのままに視線のみで周囲を散策。
視界に展開されていったのは、切符売り場、改札口、その向こうには線路が顔を覗かせている。
―――あの少年はどこにも居ない。
―――今のは夢。ただの夢だったのだ。
「何だ…夢、だったのか」
大きな安堵の波が一抹の不安を浚いきり、強張っていた身体が脱力して、
体内に潜んでいた水分という水分が全身から噴き出していく。
一安心したところで重たい上体をベンチから立たせて、
そこで初めて澪は側らに放置されたデイパックの存在を認識した。
「"あっち"のほうは、夢じゃなかったの?」
澪の中で、曖昧だった夢と現実の境界線が明確になる。
刹那という名の女に出逢い、殺し合いを強要されていること、それは紛れもない事実。
……怖がりな彼女は、認めたくない、受け入れたくない。
それでも親切なことに、手元のデイパックが理不尽な事実を突きつけてくれる。
しかし、しかし、しかし……そうやってどれだけ逃げ道を模索しても、辿り着く先は非情な現実。
退屈だった、けれど確かに大事だった、友と過ごした毎日は、ゴールとして存在してくれやしなかった。
逆に今まで傍に居た平穏が、まるで幻だったかのように。
「律」
日常を共にした、とんでもないお調子者で、けれどいざと言うときには皆を引っ張って行ってくれた、大切な仲間。
「唯」
日常を共にした、おっちょこちょいで、それでもいつも一生懸命で、持ち前の明るさと笑顔で元気を与えてくれた、大切な仲間。
「ムギ」
日常を共にした、おっとりとした、どこか掴み所の無い、けれどさり気ない優しさで何度も助けてくれた、大切な仲間。
「みんなあ…」
唯一無二の友たちの笑顔の記憶を一つ一つ掘り起こしていく。
と、突然彼女たちの顔が、ビー球を介して眺めているかのように、酷く歪んだ。
描いていたヴィジョンに亀裂が入り、皆の面が紅蓮に染まっていく。
瞬間、身がすくみ、足が震え、心臓の拍動が高まった。
胸の中に孕んだ恐怖が、大きく大きく大きく、大きく増幅する。
……嫌だ嫌だ嫌だ、そんなの嫌だ!
慌てて頭を左右に振って、嫌な妄想を振り払った。
「駄目だ駄目だ駄目だ!何とかして…何とかして、私が、みんなを…」
内気で泣き虫で、人一倍臆病な澪。
けれど、大事な仲間の存在が、胸の奥底に秘めた勇気を少しだけ、引きずり出してくれる。
"軽音楽部のみんな"ではなく、秋山澪一個人が、今こそ立ち上がらねば。
「そうだ。いつもみんなは私を助けてくれた、こんなときくらい、私がみんなを守らなくちゃ」
人を殺す…ではなく、人を守る道具が入ったデイパックは、
先ほどから開け、開けと無言の圧力を放っている。
その気迫に押し負けるのではなく、前へ一歩踏み出すために、自らの意思でデイパックのチャックを開放した。
「……え?」
コロコロコロ、と、パックから溢れ出した何かが、足元に転がる。
見るな見るなと脳が黄色い信号を点滅させるが、つい澪は、反射的に視界を床へ――。
「ぃ゛、あ゛、あ゛」
……なんだこれ。
"それ"と目を合わせた瞬間、クラッシュする脳。
全身の血の気が引いていくような、そんな感覚に襲われて…。
鉄の臭いが鼻腔を満たし、新鮮な空気を汚していく。
…次第に、"それ"の正体を明瞭に、脳が把握していった。
――― 人の腕だ。
「いや゛あああああっ!!!!」
上体を仰け反らせて、崩れそうになった体勢を、咄嗟に右手が支えることで何とか守りきった。
所作で澪は、パックの中の"何か"を掴む。
「…っ?」
手中に収まる妙な感触、凍えそうなくらい冷たい何か。
恐る恐る、見下ろしてみると――フードショップの名前が綴られた紙袋の中からはみ出した、人の手首。
切断面にはハンバーガーのケチャップのような、人間の体内で蠢いているはずの、固まった赤黒い血液。
「や、っああ゛あああああぁあぁあああああああああああぁぁぁああ!!!!!!」
―― ほんの少し、強くなろうと顔を上げた少女。
―― だが、見上げた先にあったのは太陽ではなく。
――― そこにあったのは、何もかも全てを喰らい尽くしてしまいそうな、絶望のみだった。
【B-1 液/一日目・深夜】
【秋山澪@けいおん!】
[状態]:錯乱状態
[装備]:無し
[道具]:支給品一式、女の手首@ジョジョの奇妙な冒険、ランファンの腕@鋼の錬金術師、未確認アイテム(0〜1)
[思考・状況]
2:混乱中。
1:みんなを守る?
前話
目次
次話