無題






何故、獅子や虎や鰐ら肉食動物は、殺戮をするのか。
生きるために不可欠だからだ。
水だけで生きていける動物はいるかどうか。
通常、彼等は血肉を食らわなければならないのだ。
躊躇などない。それが当然の行為だからだ。
捕食活動をし得なくなった野生動物の道は、朽ち果て逝くのみである。

ならば、人間の場合はどうか?
人間は狸の様に雑食動物だ。動物性蛋白質にこだわる必要がない。
しかし殺人が、自分自身の一個体の生命維持に繋がることはないでもない(正当防衛、過剰防衛のことだ)。
だがそれであっても人命に手をかけること自体が異常であり、報道され、弾圧される平和な治世において、
いかなる場合にそれが必要とみなされるのか。
前述した自身の生命維持のためか。
はたまた、膠着した極限状況からの脱却計画か。
若しくは、コギトエルゴスム―考えるが故に個(我)を持つ、人―無限大に広がる思考を持つが故の、狂気、故か。
否。
狂喜、と改めた方が相応しいのだろう―彼の場合は。

狂喜に駆られた男の節くれだった手には、密林の木漏れ日にきらりと輝く、
真新しい金属バットが握られていた。
「はぁっ…はっ、は…はっ…!」
少年と青年の狭間、。
その真っ只中をもがく精神を体現するが如く、彼は走っていた。

はじめはこうじゃなかった。
自慢の足の速さを活かし、動きは最小限に、呼吸は一糸乱れぬ様に、いつも通りに走っていた。
所がそれが出来なくなった。
だが、広がった枝葉に頬を切られ、逞しく大地に腰を据えた根っこに蹴つまずきそうになっても、彼は止まらない。
止まれない。

僕は何故、止まれないんだ?
こんなに震えているのに。こんなに辛いのに。

止まればあの野獣の目に射殺される。
いや、あの銀色のバットで、殴り殺される。
ちょっとばかり切れた右の頬ですら痛むのに、殴り殺されるだなんて、どれだけ痛いんだろう。
そんなもの、勿論味わいたくはなくて、彼は走る。
味わったであろう人間の様に、なりたくなくて、走る。
綺麗過ぎる銀色の輝きを濁らせた赤黒い配色を―一条の目の裏は、忘れてくれない。

あれと、あの目に狙われていると頭と体が理解してから、彼の足にはいきなりがたが来た。
メンタル面のぐらつきが過剰なくらいに表に出てしまう。

泣きそうなくらい必死な形相で、一条は逃げ惑い続ける。
後ろからも草木を掻き分けながら駆けてくる嫌な音がするのだが、
不気味な程に罵声は飛んでこない。
そこがまた、シカに喰らい付かんと冷静に冷酷に疾駆するピューマのようで、恐ろしすぎる。
ああ、テレビなんかで見るゼブラ、後ろからはチーターとかそんなの。
あれが今の僕の立場なんだなあ―

溢れそうな涙と余計な思考を、彼はぐいっと拳で拭い去った。
後僅かな距離を行った所に、高い建物が見えたのだ。
誰かいるかも知れない。
助けてくれないか、それが無理でも自然と標的が増えるんだ、自分が助かる確率はきっと上がるはずだ!

一条は一際大きく盛り上がった木の根を、400mハードルの要領で飛び越える。
渇きを知らない土に、深い、力強い足跡が刻まれた。



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