こんなもののために生まれたんじゃない
「聞かせてみろよ……続きを……」
ざわ、と。
鳴いたのは森の梢であったか、或いは自身の心に波の立つ音であったか。
その男の眼がじっとこちらを見つめているのに堪えきれず、少女は一歩を退く。
そうして初めて自身が気圧されていることに気づき、退いた分だけ歩を進めようとして、
「成る程……クク……」
男の笑みにぞっとして、踏み出せない。
「あんた……やっぱり、そういう類の人間……」
「な……!?」
その言葉は不可解で、しかし眼前に立つ男はその不可解を纏うように笑う。
笑う男の瞳は夜の闇に浮かぶ黒という不条理。
不可解と不条理とを焚き染めて芳しさを嗜むような、それは男であった。
「近づくんじゃないよ……!」
かつて姫月ゆうこであり、自身を月――ユエ――と規定した少女はその手にした拳銃を男に向けると、
夜目にも鮮やかな金色の髪を振り乱すように、叫ぶ。
武器を持っているわけではない。
何かしらの手練手管をみせたわけではない。
しかし、全身の感覚が告げている。
この男は危険だ。先程の少年とは、違う。
格が違う。世界が違う。纏う闇が、違う。
人ひとりの命を容易く奪った銃を向けておきながら、少女は自身の抱く感情の名を強く意識する。
即ち―――畏怖。
「おいおい……それじゃあ駄目……」
鈍い銀色の銃口を前にしても男は表情一つ変えない。
深い笑みを浮かべたまま、ただ静かに言葉を紡ぐ。
「あんた、それじゃ駄目だ……『さっきの顔』が出ちまってるぜ……?
そいつじゃあもう、人は殺せない……」
「―――!?」
男が何を口にしているのか、理解できなかったのは一瞬。
その意味に気づいて、金色の髪の少女は真に戦慄する。
「な、何……を……」
「ほら、そいつだ……。その……『あんたじゃない方』……!
いや……そっちが本物……ハリボテじゃない方……そう言った方がいいか……?」
ぐにゃり、と視界が歪む。
そんなはずがない、と叫びたかった。
どこから見ていた。どこから知っている。
何を、どうして、何故、知っている。
男が口にしているのは、ヒメとユエ。
姫月ゆうこという存在の、誰にも知られてはいけないはずの、本質。
「そん……な……」
ヒメ。不幸で無力な、可哀想な少女。
ユエ。復讐の為には身も売る、悪女。
ヒメとユエ。一つの身体に二つの心。
眼前に立つ男が知るはずもない―――そんな、救いようのない、嘘。
「あんた、そいつを―――」
男の顎が指し示すのは、物言わぬ少年の骸。
哀れな生贄の、抜け殻。
男は見ていた。
少年を貫く弾丸を、その命の奪われる様を、男は見ていたのだ。
その上でなお徒手空拳、銃口に身を曝す男の不条理が、世界を覆っていく。
「そいつを撃った後……変わっただろう?
蓮っ葉な言葉遣い……肩で風切るみたいな仕草……。
素人くさい三文芝居……どっちが『本物』か……そんなのは見りゃあ判る……。
所詮無理があるんだ……どうしようもない偽者……ハリボテの臭いは隠せない……!」
男が紡ぐ。
刃を紡ぐ。
人を殺す、それは言葉という刃。
「自分の中に……もう一人の自分を創っちまう……。
戦争に行った中にはたまに……そういう奴が出たって聞く……。
敵を殺すのは『誰か』……、自分じゃない『誰か』……。
そうやって自分は悪くないと思い込む……そんな理屈に合わない話……」
男は紡ぐ。
ユエという嘘を裂く刃を。
ヒメという虚を穿つ刃を。
「だけどあんたは逆……本物のあんたでそいつを殺して、『もう一人』に代わった……。
だけどそいつはおかしい……道理で言うならそいつは逆でなけりゃあならない……!
なら話は簡単……あんたは欲しかったんだ……理由が……」
知るはずのない、姫月ゆうこを。
男は、切り裂いていく。
ただの、言葉で。
「そう、『もう一人』に代わる……代わって、罪を重ねさせるだけの理由……。
例えば……『本物』が大した意味もなく人を殺す……殺して、罪の意識に堪えかねる……。
良心の呵責……そんなものに押し潰されてしまえば、壊れてしまえば、『もう一人』に頼るしかない……。
仕方なく……あくまで仕方なく……『もう一人』に罪を重ねてもらうしかない……。
そんなところだろう……? あんたの台本は……」
藤生重慶を、山崎鴇彦を、『鎧』を欺いた、月の仮面を。
いとも容易く、男はズタズタに、切り裂いていく。
男に向けていたはず銃は鉛でできているように重く、その手は垂れ下がって、もう持ち上がらない。
「ならあんた……『本物』はもう……出てきちゃいけなかった……。
後の面倒ごとは全部『もう一人』が引き受けなきゃ、裏に返した道理が通らない……。
なのに……オレが現れたとき、あんた……足を引いた……一歩を下がった……。
あれがいけない……そのハリボテの向こうから顔を覗かせる愚行……!
簡単に馬脚を現しちゃあ話にならない……台本は滅茶苦茶……!
『本物』と『もう一人』……、そんなのはハナから茶番……!」
崩れていく。
姫月ゆうこと、ヒメと、ユエとを分ける堤防が、一言ごとに、突き崩されていく。
ユエは、姫月ゆうこではない。
姫月ゆうこは、ヒメではない。
ヒメは、ユエではない。
そうでなければ、いけないのに。
ただの一目。ただの一言。ほんの僅かに垣間見せただけの、隙間。
そんなところから影が忍び寄るように。
男は、姫月ゆうこを突き崩していく。
「正気とか狂気なんてのは……スイッチを切ったりつけたりするみたいに、
パチパチ切り替わるもんじゃない……心のどこかに一本の線があって、
気軽に行ったり来たりできるような代物とはわけが違う……」
崩れていく。
男の口から漏れ出る闇に侵されて、罪と罰の分担が、崩れていく。
復讐を願うのはヒメ。
復讐を遂げるのはユエ。
罪はユエ。
罰はヒメ。
罪と罰との両方を背負えるほどに、姫月ゆうこは強くないというのに。
弁明の機会すらなく、崩れていく。
「病んで……爛れて……必死で膿を掻き出す内に傷を広げ……気づけば全身腐っちまってる……。
そういう引き返しようのない泥沼……それが狂気……!
あんたのそいつは狂ったフリ……狂気の真似事……」
違う、違う、違う。
罪は『瑞希たち』、罰も『瑞希たち』、ヒメは被害者、ユエは断罪者。
そうでなくてはならない。
そうでなくては、赦されない。
ヒメにもユエにも罪はなく。
ならば罰もまた与えられることもなく。
だと、いうのに。
「この世は苦界……いっそ狂ってしまえればどんなに楽か……。
そんなことを考えて……しかし正気はどこまでもついてまわる生き地獄……!
そこであんたは思いついた……『誰か』に狂ったフリをさせて……自分は不貞寝を決め込めばいい……。
だがそれはあんまりムシの良すぎる話……! そいつは通らない……!」
男は、姫月ゆうこを断罪する。
ユエなどいないと。
そんなものは、最初からただの『姫月ゆうこ』でしかないのだと。
罪を犯すユエがなく。ならば、罰を受けるヒメもなく。
そこにいるのは、罪を犯し、罰を受けるべき姫月ゆうこがいるだけなのだと。
男の突きつける、それは判決の主文。
「そもそも絶望なんてもんは……見渡せばその辺に転がってる……。
一山いくらの世界……それが現実……!
あんたはその一つに躓いた……それだけのこと……。
だが躓いて……その小石程度の絶望に負けを認めた瞬間……人間は絶望の奴隷になる……!
その先の道筋はただ二つ……泥濘の中を這いずって生きるか、あるいは……そこから逃げ出すか……!」
奪われていく。
正義が。断罪の権利が。
想いの結晶が。血を吐くような時間が。
「あんたは明らかに後者……。
死んで楽になろう……酷な現実からは逃げ出してしまえばいい……そんな風に考えるタイプ……!
なら、どうして生きてる……? それほどに生きたいか……?
違う……」
奪われていく。
姫月ゆうこを護る鎧が、姫月ゆうこの掲げる剣が。
姫月ゆうこの、生きる力が。
もうやめてと、懇願する暇すら与えられず。
男の言葉が、姫月ゆうこを切り刻む。
「死にきれないんだ……あんた……!
未練……執着……思い残し……言い方は色々あるが……要はそいつらが足を引っ張ってる……。
いま自分が死ねば、ここで消えてなくなれば、どこかで何かが失われる……。
何も残せず……何も果たせず、何かに負ける……そんな風に考えてる……。
けどそいつが間違い……最大の考え違い……!」
そう、そんなことはわかっている。
最初からわかっていた。
何度も死のうとして。何度も生き延びた。
それは運が良かったからなどではなく―――ただ、生き汚く未練に縋ったという、それだけのこと。
死んでもいいと思った。
死にたいと思った。
死のうと思った。
何度も思って、だけど。
姫月ゆうこは、姫月ゆうこを殺すことを、赦さなかった。
救われないとわかっていた。
生きたところで救われない。
何一つ取り戻すことなど叶わない。
ただ何かを奪うことしかできなくて。
もう壊れてしまった幸せな時間は、そんなものでは縫い合わせることもできなくて。
その程度のことは、わかっていた。
「報われず……救われぬ……それも当然……!
あんたは……あんた自身を呪っている……!」
その通りだと、声がする。
切り刻まれて隙間が空いた、心の中の一番奥の、鍵のかかった扉の向こう。
死んでしまえと声がする。
救われぬ女は死んでしまえ。
生きて報われぬ女は死んでしまえと声がする。
同時、死を赦さぬと声がする。
仇を討て、あの女たちを殺せ。
清宮正和の無念を、姫月ゆうこの怨嗟を世にぶち撒けろと声がする。
無明の死へと誘い、同時に過酷な生へと引き戻す声。
「こいつは傑作……! あんたは死んでも助からない……!」
狂いたくても狂えない……生きて地獄、死んでしまえばなお救われない……!
こいつは正しく狂気の沙汰……面白いじゃないか……!
あんた、自分じゃ狂えないほど深いところで……もう歪んじまってるんだ……!
どうしようもないくらいに……!」
男が笑う。
呵々と、声を上げて、楽しそうに。
笑い声が増えていく。
死へ呼ぶ声が笑う。生を強いる声が笑う。
大合唱となった笑い声が、どこまでもどこまでも、際限なく音量を増していく。
死ね、死ね、死ね、死ねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね。
生きろ生きろ生きろ生きろ生きろいきろいきろいきろいきろいきろいきろいきろいきろいきろいきろ。
死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろお前は、どうやったって、救われない。死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろ。
生きろ死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろ死ね生きろ死ね。
生きて死ね死んで生きて生きて死んで死ね生きて死んで生きて生きて死んで生きて死んで生きろ。
それはずっと、姫月ゆうこを責め苛んできた声。
耳を塞いで、目を閉じて、それでもどこかで響いていた声。
部屋の隅に置かれた箪笥の裏の暗闇から、のどかな昼下がりの公園の茂みの奥から、
ずっと響いていた、声。
罪を償えと。
罪を贖えと。
罪を。
清宮正和を殺した罪を。
自らと引き換えに清宮正和を死へと追いやった罪を贖えと。
生き地獄を這って贖えと。
非業の死を遂げて贖えと。
声が、引き裂く。
引き裂かれて、姫月ゆうこはどこまでも小さく、見えないほどに小さくなっていく。
小さくなって、思考が歪み、視界が揺らぎ、五感が薄らぎ。
―――ああ、でも。これでようやく、壊れてしまえるか。
そんな風に考えた、瞬間。
ぴたり、と。
笑い声が、やんだ。
「―――え……?」
音が消えた。
笑い声が、男の漏らす笑い声が、消えていた。
同時に、姫月ゆうこを取り囲んで責め苛み切り刻んでいた声も、消えた。
小さく引き裂かれていた姫月ゆうこが、元の姿に積み重なっていく。
五感が戻る。視界が定まる。思考が、揺らぎを失っていく。
すぐそこに、手を伸ばせば届きそうなところに迫っていた、最後の救済。
狂気という救いが、遠く霞んで、消えていく。
「そん……な……」
ごとり、と重い音は持っていた銃の地面に落ちた音であったか。
そんなものを、既に少女は見ていない。
仮面を剥がされ。
罪を突きつけられ。
死と生との両方から突き放され、最後の救済すら剥奪され。
「どう……、どうしろって……いうの……!」
絞り出すような声は、偽者だらけの少女に残された、本当の言葉だった。
「私、わた……わたし、に……! どうしろって、いうの……!?」
膝から崩れ落ち、顔を覆って突っ伏した少女を見下ろす男の表情は動かない。
その冷厳とも映る表情は動かないがしかし、瞳に宿る光が何某かの瞬きを得て煌く。
「どうするもこうするも……」
長く、深い溜息。
「あんた、ご大層な演説ぶってたじゃねえか……。
復讐……殺したい奴がいる……って。
仇なんだろ……? だったら討てばいいだろう、そいつを……」
事も無げに言ってのけた男の声。
顔を上げた少女の顔は涙に濡れ、広がった長い金髪は土に汚れている。
「な、なら……! なら、放って置いてくれればよかった……!
ユエ、が……ユエが私……私だなんて、そんなことわかってた……!
わかってやってたんだから……! だけど……しょうがないでしょう!?
天野瑞希だけならよかった! 高村大なら、鬼面党や夜桜会や、そんな相手なら!
敵は、和くんの仇は、はっきりしてた! 殺してやろうって! なんだってやって!
ユエだって! 演じて! 身体だって汚して! だけど!
だけど、こん、な……!」
溢れる涙が、偽者の化粧を落としていく。
「こんな……こんな、殺し合いなんて……巻き込まれて……!
敵も! 味方もなくて! わからないじゃない! 誰もいないの!
藤生も! トキも! 誠くんも! 誰も私を助けてくれないんだから!
だから! 『ヒメ』じゃ駄目だ、って! 姫月ゆうこじゃ生き残れないから!
『ユエ』が! ユエが……本当に、本当の私にならなきゃ、駄目だって!
最初、最初から……『もう一人の私』なんかじゃない! わかってる! だけど!
だけど、それじゃ仇……和くんの仇、取ってあげられないでしょう……!
ヒメじゃ殺せない……生き残れない……だったら! だったらユエが!
ユエが本当の姫月ゆうこになるしかない、って! そう思ったから!
こ、殺し……殺し、て……わた、私……は、私じゃ、もう……殺してあげられない……!
もう……」
後は、言葉にならなかった。
暗い森を満たすのは静かに少女の咽び泣く、その響きだけだった。
「おいおい……」
男が口を開いたのは、少女の涙が枯れ、ただしゃくり上げるだけとなってから、
更に暫くの間を置いた後のことだった。
「あんた何か……勘違いをしてやしないか……?」
「……」
少女は顔を上げない。
じっと、落ち葉に覆われた暗い森の地面を見つめている。
「仇を取る……怨みを晴らすってのは……そんなに安いもんじゃあない……。
怨みを買う奴……殺しても殺し足りないってほどの怨みを買う奴なんてのは……どの道まともじゃあない……。
その手合いは偶然で怨みを買ったりはしない……偶然なんかじゃあないんだ……。
怨まれると分かって……殺される危険を理解して……それでもやっちまう……やれちまう人種……。
そういう生き方のできる人間がたまにいて……例外なく四方八方……色んな連中から怨まれる……!
怨まれて、疎まれて、嫉まれて……それでも生きて怨みを拡げていく……そんな手合い……。
クク……あんた程度の殺意……向けられ慣れてるんだ、そういう連中は……」
笑い声。
先ほどのような大笑ではない。
静かな、澱んだ泥のような、笑いだった。
「ハリボテの狂気は通用しない……そんな奴を相手にするときに、そんなものは……。
踏み潰される……! 本当の狂気……本物の化け物に……呑み込まれるだけ……!
子供だって知ってる……強者は簡単に仇を取られないから強者……その程度のこと……!
勝ちたいなら……そんな連中に勝ちたいと、本当に思うなら……身を委ねるべきは唯一つ……。
己……! 己の声だけ……!」
闇が、拡がる。
金色の髪の少女を抱きすくめるように、森の闇が、明けぬ夜が、拡がっていく。
「声……! あんたの声……人を呪い、世を呪い……手前まで呪うような……。
生きるも死ぬも、彼岸も此岸も地獄に変えちまったその声……。
そいつだけは偽者じゃない……あんた自身の声……それが……それだけが力……!
捨て身……そいつをぶつけて初めて勝ちの目が出てくる……!
そうでなきゃ取れない……仇なんてのは……!」
少女は顔を上げない。
ただ。
ただ、土の匂いのする闇の中でじっと、目を見開いている。
その瞳に、もう涙はない。
「で……どうする……?」
その問いを最後に。
それきり、声が途絶えた。
―――ざわ、ざわと。
梢だけが、密やかに音を立てていた。
******
男の言葉は、闇だ。
闇に包まれて、それを心地いいと、姫月ゆうこは感じる。
生に報われず。死に救われず。狂うことすら、赦されず。
欺瞞も、自己憐憫も、強い誰かを演じることも看破され。
何一つなくなって、何一つ奪われて、ならばもう、闇を恐れる道理もない。
手指が闇に侵される。足先から闇が染み透る。身体が闇に埋もれて。
黒く、黒く染まった姫月ゆうこはだから、男の闇を反芻している。
声、と男は言う。
残された声。怨み。呪い。
それを、少女はこう定義する―――想い、と。
この場所には、姫月ゆうこの力のすべて―――藤生重慶も月下仙女もなく。
ユエという仮面も、そこに刺さった幾つもの棘すら、男の言葉が溶かし去って。
ならば、残された想いだけを、姫月ゆうこは抱いている。
そう考えれば、何のことはない。
戻っただけだ。あの頃に。
自らの命を絶とうとする日々の終わり。
瑞希の名を聞いた日。生き続けさせられた意味を知った日。
生き終われず在り続けた日の、その最後に戻っただけ。
想いは刃だ。
抱きしめた刃は自らを傷つけ、血に染めていく。
想いは刃だ。
振るう相手を見つけた刃は、ならば誰かを殺す。
力はない。想いはある。
あの日から、清宮正和の仇を見つけた日から被った色々な仮面に隠されて、見えなくなっていた想い。
それが重くて、身動きが取れなくなりつつあった想い。
清宮誠も。藤生重慶も。山崎鴇彦も。―――和泉祥も。
想いに刺さって、ひどく、息苦しかった。
今、そういうものの全部は男の闇に溶かされて、消えてしまって。
ただ本当に、本当に叶えたい想いだけが、そこにあった。
剥き出しの、小さな、儚い想い。
―――『あの日』を、殺そう。
清宮正和が死に、姫月ゆうこであったものが引き裂かれたあの日。
二人が生きることをやめたのに、残りの誰かが生きている。
そんなのは、おかしい。
そんなのは、間違っている。
誰かが死んで、誰かが生き終わったのなら―――その日の全部が、死ぬべきだ。
あの日に生きた誰も彼もが死んでしまえば、それは『あの日』が死んだということだ。
なかったことになる―――すべてが。
誰も生きていないのなら―――誰も『あの日』を思い出さないのなら。
『あの日』はもう、この世のどこにも、なくなるのだ。
ああ、だから。
それだけを願って、その想いだけを抱いて、この生を遂げよう。
天野瑞希を殺し、高村大を殺し。
そうして最後に―――姫月ゆうこを、殺そう。
優しさで、叶えられない願いなら。
優しさを捨てて想いを遂げる姫月ゆうこは、『あの日』と一緒に。
消えて、なくなろう。
それが、清宮正和の優しさを裏切る、姫月ゆうこの末路だ。
******
長い、長い時間が過ぎた。
その声が静寂を破ったのは、東の空が白み始めた頃である。
「―――やるわ」
銀色の光が失せた、白い月の下で。
それだけを呟いて顔を上げた少女の瞳には、唯一つの決意だけが宿っている。
「……そうかい」
答えが返ってくるまでに、暫くの間があった。
眠っていたのか、見れば男は近くの樹に寄りかかるように座り込んでいる。
「なら俺は……そいつを見届けよう……」
意外な答え。
否。男の答えに、凡の一字は存在しない。
故に驚愕に値せず、少女はただ静かに尋ねる。
「どうして?」
「決まってる……」
言いながら、男が立ち上がろうとする。
「あんたのしようとしていることが……狂気の沙汰……、だから、」
男の言葉が、揺れる。
くらりと、眩暈を起こして倒れる女学生のように。
「……退屈しのぎには……なる……」
すんでのところで近くの枝を掴み、言葉を続ける。
その奇妙に息を継ぐような声音に怪訝な顔を向け、少女はようやくにして、気づく。
白み始めた空の下。
薄明かりの中、男の顔色が蒼白を通り越し、土気色を帯びていることに。
「何でもない……少しばかりイカレた遊びの最中だった……それだけのこと……」
少女の表情に、男が答える。
幽鬼の如き面構えに、しかし死に至る悲愴はなく。
飢餓と、渇望と、決して届かぬ何かに手を伸ばすが如き稚気とを見て取って、少女は踵を返す。
「……そう」
それだけを、返す。
男と交わした会話の、それが最後だった。
確かな足取りで歩き出したその背後にふらりとついてくる名も知らぬ男の気配を感じながら、
少女は、いまやユエでなく、ヒメでない少女、姫月ゆうこは、ただ天野瑞希と高村大への怨嗟を胸に、
悲嘆なく、憐憫なく、燃え滾るような殺意すらなく、ただ黒く粘る沼の如き怨嗟だけを胸に、歩を進めている。
【F-4 鬱蒼と茂った森/一日目 黎明】
【名前】ユエ@特攻天女
【状態】健康
【持ち物】SIG Sauer P232SL(残弾3/8)ディパック(基本支給品一式、不明ランダム支給品0〜2)
【思考】0:姫月ゆうことして天野瑞希・高村大を殺害し、自殺する。
1:天野瑞希・高村大を捜す。
【名前】赤木しげる(若)@アカギ
【状態】出血多量(無傷)
【持ち物】ディパック(基本支給品一式、不明ランダム支給品1〜3)
【思考】1:姫月ゆうこの復讐を見届ける。
※鷲巣麻雀5回戦終了後、2000ccの血液を失った状態での参戦です。
※村山斬のデイパック及び支給品(内容不明、1〜3)は死体の側に放置されています。
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