無題






足が痛い。
鳥海千紗都は真っ暗な雑木林の中を懸命に走っていた。
衣服は土で汚れ、木の枝に引っかかったりもしてぼろぼろになっている。
だが、千紗都は構わずに、いや、そんなささいなことには気づかずにひたすら走り続けていた。
足を止めようとしても、先程の光景が目に浮かぶ。
すずが「あいつ」のイングラムM11によって蜂の巣にされるその光景が。
足が痛い。息が切れる。
このまるで自分を虐めて楽しんでいるかのような重さの「中華鍋」をそこら辺に投げ捨ててしまいたかった。
しかし、それだけはできなかった。
中華鍋などが武器になるとは到底思えなかったが、自分の身を守るものはこれしかないのだから。

人影。
それもかなり近い。
なんで気づかなかったんだろう。
千紗都は、今さら無駄だと思いつつ、足を止めた。
あちらも暗闇。音は聞こえても姿は見えないはず。そして姿が見えなければ銃だって撃てないはず。
そう考えての行動だった。
しかし、月の女神は彼女がお気に召さなかったようだ。
雲間から這い出てきた月の光が彼女だけを照らした。
「ちーちゃん?ちーちゃんなの?」
青ざめる彼女の頭に血の巡りを戻したのはその声、その言葉だった。
間違いない。くーちゃんだ。
千紗都はあふれでる涙を拭おうともせずにその人影のもとに駆け出した。
自分はこんなに怖かったんだ。くーちゃんもきっと恐怖に怯えていたに違いない。
二人で抱きしめあって、泣きあおう。
二人でいれば何も怖くない。
私達は二人で一つなのだから。
千紗都は走りながら涙を拭い、ようやく月明かりに照らされた鳥海空の顔を見た。
顔色一つ変えていない。
もしその人が空でなかったら、千紗都は間違いなく気づいたはずだった。
ああ。まだ信じられないんだな。でも、すぐにくーちゃんも顔をくしゃくしゃにして駆けよってくるに違いない。
千紗都はそこで足を止めた。
なぜなら、彼女の半身が動かしたのは顔の筋肉でも足でもなかったから。
空はただ右手に持っていたベレッタM92Fを千紗都に向けた。
「くーちゃん……?」
千紗都は理解できなかった。
左手を右手の上に添え、千紗都の頭をポイントしている空を見ても、良く分からなかった。
くーちゃんが自分を殺す。
彼女の脳はそのことを理解することができなかった。
パン、という破裂音を耳にしても理解できなかった。
それは、ベレッタの銃弾によって完全に破壊された今でも同じことだった。
月明かりに照らされた自分の片割れの姿だけを目に焼きつけて、彼女の思考は闇の中に溶けていった。
(鳥海千紗都 死亡 残り36人)



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