木々の声と、誰かの囁き






 吹き抜ける風が、ずぶ濡れの僕には辛かった。
 川辺に横たわっていた自分。
 何をしていたのだろうか。頭がぼうっとしてはっきりとしない。
 泳いでいたということはないと思う。

 見渡す限り、樹、樹……
 ここは一体どこなんだろうか。
 そして、ふと違和感を抱く。
 ここは一体どこなんだろう?
 狭い意味ではない。道に迷ったとか、そういう問題じゃない。
 僕は何故こんなところにいるのか思い出そうとする。
 やっぱりわからない。「ここが何処だか」わからない。
 そうすると次に思い至ることはこれだ、そう決まっている。

 僕は、一体、誰であるのか?

 さわさわ、さわさわ。
 樹の葉が風に吹かれる。
 僕は大量に水を吸った服を着ているのはわかる。
 ポケットの中を漁ってみるけど何も出てきやしない。
 さわさわ、さわさわ。
 聞こえるのは川の音。樹々の音。
 記憶のポケットも探ってみる。当然何も出てこない。
 自分の名前なんて基本的なことも思い出せないのだ。
 そんなポケットに、何が入ってると期待したんだろう。
 不思議と恐怖は感じない。むしろあるのは解放感。
 僕は何かから解放されたがっていた? わからない。
 風音に混じって、誰かの声が聞こえた気がした。
 音のありかを探して僕はおもむろに歩き出した。

 思ったよりも近くにその人はいた。
 僕と同じようにその人はずぶ濡れで、僕と同じように横たわっていた。
「う……あぁ……」
 僕と違うところは、全身傷だらけといったところか。
 右脚には銃弾の痕すらある。弾は貫通しているみたいだった。体内に残っていたら危ないことに――
 頭が一瞬真っ白になる。
 僕は今何を考えた?
 弾が体内に残ってたら危ないことに――違う。
 記憶喪失にも種類があって、知識は残っているのに経験だけが抜け落ちているというものがあったはず。
 それを考えると、銃のことを識っていてもおかしくはない。
 問題はその前だった。
 何故僕はこの傷を銃痕だと迷わず判断したのか。
 普通の生活を送っていたら、そんなものにお目にかかる機会はないだろう、きっと。
 なのにどうして、こんな、ためらわないで。
 まさか暗殺者だったんじゃないか、僕は。
「――っ!」
 頭痛がした。だめだ、これ以上考えたら、とても良くない。そんな気が。
 無理にでも今はこの人のことを考えよう。
 息はあるようだった。だからといってこのまま放っておいていいとも思えない。
 どうしよう。今の僕に何かできること――
 この人は駒として使えないだろうか。とりあえず目を覚ますのを待つといい。
 仕えなかったら殺すだけだ。こんなけが人、問題なく殺れる。

「!?」
 誰かの思考が割り込んだ。
 いや、そんなことはありえない。ということは、これは間違いなく、僕が考えたことだ。
 駒って何だよ。殺すって何だ!? どうしてそんなことを平気で考える!?
 さわさわ、さわさわ。
 また風が吹いた。また葉擦れの音。
 きっとこの樹々の葉の一つ一つに誰かが乗っているんだ。
 そいつらが一斉に僕を見て騒ぎ立てる。
 ヒトゴロシ、キミハ、ヒトゴロシ?
 さわさわ、さわさわ。
 これはきっとその声だ。
 妄想が膨らむ。自分ひとりで支えきれなくなる。
 水に濡れた服に嫌な汗が浮かび、頭痛はますますひどくなる。
 僕は、何だ? 記憶喪失だとわかった時には抱かなかった不安が、今はこんなにも重い。
 もう一秒だってここにいたくはなかった。
 行き先も考えずに、けが人も放り出して、僕は走った。

 走っても、僕が僕である以上、この思考からは逃げられない気がしたけれど。
 誰か僕を助けてください。
 それか――本当の僕、早く戻ってきてください。



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