DEAD SET
ぎゅ、と。
鈴木由真は自らを抱く腕に力を込める。
全身が、震えていた。
眼前に繰り広げられる光景を、由真はまだ理解できずにいる。
響くのは鈍く、濡れた音。
飛び散るのは、血飛沫。
由真の知る喧嘩という言葉の意味が、崩れていく。
喧嘩というのは、こんなものではなかったはずだ。
殴れば痛い、涙も滲む。
ひどく叩けば血は出るだろう。
もしかしたら傷だって残るかもしれない。
それでも。
それでも、日常の中にある喧嘩というものは。
躊躇も葛藤もなく血達磨の相手を殴り、蹴りつけ、笑うような。
嬉々として相手を死に至らしめるような、そんなものではなかったはずだ。
殺意。
憎悪や憤りとは別の次元に存在する、無色透明の毒。
そういうものが存在することを、今日この日まで、鈴木由真は実感できずにいた。
殺意という毒の効用は唯一つ。
人が、人であるための最後の歯止めを、取り払うこと。
望んで人を殺すモノは既に人たり得ず、ヒトならざる何かへと変貌を遂げる。
―――古来、即ちそれを称して、鬼、と呼んだ。
流れ出す血と、肉を食み骨を砕く音と、人と鬼とを前にして、
鈴木由真の眼前には、一つの道が、伸びている。
***
名もなき山の頂に、小さな社がある。
この島の一番高い場所、遮る物なく月光の照らすその境内に高村大が足を踏み入れたのは、
ほんの数分前のことだった。
朱の剥げた小さな木製の鳥居を潜った先に見えたのは、見る影もなく朽ち果てた小さな拝殿。
今にも崩れそうなその拝殿へと続いている、申し訳程度に舗装された石造りの参道の中ほどに蠢く、
二つの影があった。
一つの影は背を向けて立っている。
上背はそれほど高くないが、男の肩幅をしていた。
その向こう、奥の影はこちらの方を向いている。
地べたにぺったりと座り込んだ、それは少女のようだった。
その身に着けた濃紺のブレザーと薄い青のベストが、下に着込んだシャツごと何か鋭いものに
切りつけられたように引き裂かれ、白い肌を露出させている。
裂けた制服をかき合せるように己が身体を抱いた少女と、視線が合った。
怯えと恐怖と困惑と、そんなものがない交ぜになった視線。
縋るような、瞳。
何の感慨も、湧かなかった。
それは高村自身がこれまで幾つも踏み躙ってきた弱者と、同じ種類の目でしかない。
同情も、憐憫も、まして義侠心めいたものなど、浮かんでこようはずもなかった。
ぼんやりと、ああ女が犯されている、と。
或いは、女はこれから死ぬのだと、それだけを思った。
この島にはこれから、こんな光景が溢れるのだろう。
高村はそのことに一切の感情を寄せない。
和泉祥を喪失し、伊沢吉成と訣別し、姫月ゆうこを殺害すべく動き出した矢先に
この島へと連れて来られ、そうして殺し合いをしろと言われた。
ただ、それだけのことだった。
結局のところ、高村大を突き動かしていたのは姫月ゆうこに対する復讐心ではない。
月下仙女との戦争も、喪失を埋め合わせる手段でしかなかった。
彼はただ、己の中の空虚に吹き抜ける風の吹くままに暴力を欲した。
暴力の齎す高揚感と血の流れる恍惚に酔うことで何かを忘れようとしたという、それが
高村大をして千葉県下五百の兵隊を動かして戦争を始めさせた、唯一つの要因である。
生きる意味など、既にして見失っている。
高村にとっては戦争もこの島も同じ、代償行為でしかなかった。
立ち塞がる総てを蹂躙し粉砕し隷属させる、無為で空虚な暇潰し。
それはひどく純粋で、ひどく悪意に満ちた、破滅願望だった。
だから高村は眼前の光景をぼんやりと眺めている。
死も陵辱も、それは、それだけのことでしかなかった。
目の前にいるのは和泉祥ではなく、伊沢吉成ではなく、遊佐明仁でも天野瑞希でも矢野アキラでもなく、
自らの記憶にある誰でもなかった。
和泉祥を喪失した高村にとってそれは、世界の端にある書き割りと同義である。
その生死も、喜悦も悲嘆も希望も絶望も、高村大に価値判断を促さない。
そこに一切の意味は、存在しなかった。
わざわざ山頂にある神社へと足を向けたのも、単なる郷愁でしかなかった。
天野瑞希と遊佐明仁と、三人で過ごした、悪夢のような愉しい時間。
それを思い返したが故の、単なる気まぐれに過ぎなかった。
小さな音が、凍りついたような時間を打ち砕くまでの長い一瞬の間、縋るような少女の瞳が揺れるのを、
だから高村はただ無機質に見つめていた。
ざ、と。
静寂を破ったのは、半歩を引き肩越しに振り返ろうとするもう一つの影が、砂利を踏んだ音である。
少年と思しきその影は、些か奇妙な風体をしていた。
身に纏った学ランの前をはだけ、その下には何も着けずに直接素肌を晒している。
ボトムスは下腹部までを露出した、過剰なまでのローライズ。
その手に輝く小さな刃を見て、高村の表情が初めて動いた。
ナイフにしては刀身が長く、短刀にしては刃が奇妙な曲線を描いている。
刃渡りにして二十センチを超える分厚い刃を持つそれは、山刀と呼ばれる実用的な刃物である。
高村の表情が歪んだのは、驚愕や怯懦の故ではない。
その形状に見覚えがあるのだった。
忘れるべくもない、それは高村大の共犯者、天野瑞希が愛用していた山刀に他ならなかった。
改めて思い知らされるこの殺し合いの主催者の悪趣味を、高村は苦笑を以て迎える。
この分なら鬼面党や夜桜会の特攻服あたりもどこかに用意されているのかもしれない。
私服であるレザーのパンツとゼブラ柄のシャツを身に着けた自身の格好を思いながら、高村が笑う。
―――月下、突堤に舞う白い特攻服。
そんな光景が不意に浮かんで、高村の表情から笑みが消えた。
記憶を乱暴に掻き消すように足を踏み鳴らす。
リーゼントに指を差し入れ、唾を吐き棄てた。
浮かんだ幻が薄れて消えれば、代わりに表れるのは現実の光景。
眼前の少年が、完全にこちらへと向き直っていた。
温度を感じさせない瞳と目が合った、その瞬間。
少年が、動いた。
す、と氷の上を滑るような、殆ど上下にぶれない歩様。
相手に対応する隙を与えず間合いを詰める、見事な摺り足である。
瞬く間に近づいてくる少年の、手にした山刀がゆらりと揺れた直後、跳ねた。
咄嗟に体を沈めたその肩筋の上を、閃光の如き突きが駆け抜ける。
躱した、とみたその刹那、しかし高村の目は、少年の足が前進を止めているのを捉えていた。
「―――!」
思考よりも早く、直感で大地に身を投げる。
文字通りの間一髪。
少年が退きながら刃を捻り薙いだ軌道が、一瞬前まで高村の首があった場所を刈り取っていた。
側転に近い姿勢のまま、肘を差し入れて受身を取った高村が、勢いを殺さず立ち上がる。
見れば少年は既に跳ねるように飛び退り、距離を取っている。
構えは右手一本で保持した山刀の柄頭を包むように左手を添える、変則の片手持ち。
一分の違えもない青眼を取る少年の姿は、煌々と照る月光を反射して尚、暗い。
背筋を流れる冷たい汗に、高村は思わず口の端を上げる。
高村を支配していたのは恐怖でも畏怖でもなく、高揚ゆえの戦慄である。
眼前に立つ少年の異質を、高村は直感している。
初対面の人間に物も言わず斬りかかる、そのこと自体は別段珍しくもない。
強制された殺し合いの中で精神の平衡を失う者もいるだろう。
我を忘れ、無我夢中で人に害を為す人間の存在を否定できるような世界には、
高村大は生きてはいなかった。
しかし、眼前の少年はその手の連中とは決定的に違うと、高村は感じている。
恐慌の中で狂気に身を任せるような容易い相手では決してないという確信めいたものを、
高村は一瞬の攻防の中で得ていた。
そのことを確かめるために、拳を固めて一歩を踏み出す。
少年は動かない。
一歩。
まだ動かない。
更に一歩。
動かない。
次の一歩。
敷き詰められた砂利を蹴り、加速した。
と、それまで彫像のように微動だにしなかった少年の目が、光を帯びた。
ぎらり、と月を映して煌いたのは、刃であったか、瞳であったか。
右の拳を突き出そうとした高村の機先を制す、完璧なタイミングのカウンター。
無防備な胴へと突き込まれようとした山刀の切っ先が、しかし止まる。
踏み込んだ高村の軸足が全力で地面を噛んでブレーキをかけた、その一瞬後のことである。
高村が選んだのはストレートではなく、慣性を無視した力任せのバックステップ。
彼我の距離が再び開き、舞い上がった土埃が音もなく吹き抜ける風に散らされていく。
互いに言葉はなかった。
踏み込みの勢いにフェイントを見抜いて刃を止めた少年の冷静さを、高村は静かに推し量っている。
厄介だ、と思う。
厄介で、面倒で、同時に、ああ、やはり、とも思っていた。
やはり眼前の少年は、違う。
文字通りの意味で、住む世界が違うのだと、高村は確信する。
少年の刃には、確かな殺意が篭っている。
無論、殺意に満ちた刃など珍しくもない。
たとえば天野瑞希が振るう刃には、いつも明確な死への意思が感じられた。
高村とて親衛隊長を務めた男を目の前で刺殺されてもいる。
世には常に殺意が溢れていると、その程度のことは嫌というほど理解していた。
しかし、眼前の少年のそれは、異質だった。
少年の殺意には、決意ががない。
少年の刃が物語るそれは―――ひどく澄んだ、殺意。
そこに覚悟はなく、悲壮感もなく、恐慌も狂気も切迫も高揚も興奮も緊張も磨耗もなかった。
ただ純粋に人を殺すという、それだけの意思。
雑念なく、殺すという事実に意味を持たず、人を殺せるもの。
たとえば戦争。
たとえば宗教。
たとえば貧困。
たとえば薬物。
たとえば悦楽。
そういうものが殺害という行為から意味を剥ぎ取っていくことは、理解もできる。
だがそれは同時に、その行為に異なる意味を付け加えていくということでもあった。
殺害が齎す何かに意味を見出すという、価値の付随。
殺害という手段による目的の達成。
それが、人を殺すということの新たな意味になる。
そういうものであれば、理解もできた。
しかし、眼前の少年には、それがない。
少年の殺意には、意味がない。
殺害という行為に対する、いかなる不純物も感じられない。
少年にとって殺人は、手段ではなく、目的でもなく、ただの、行為でしかない。
そういうものの存在を許容する世界を、高村は知らない。
殺人を生業とする者たちとも隔絶した、圧倒的な異質。
故に、少年の生きる世界は、ここではない、どこかだ。
高村の生きていた世界とはあらゆる意味で地続きでない、どこか。
そこでは、死に価値がないのだと。
そう、感じた。
死がありふれているということではない。
殺意が蔓延しているということでもない。
そこではただ、殺害という行為が、当たり前なのだ。
何かのために殺すのではない。
生きるために殺すのではない。
ただ、殺すために、殺すのだ。
朝起きて、陽の下で働き、夜に眠るように、殺すのだ。
その世界では、殺害は罪ではない。
罪でなく、罰でなく、それはだから、意味を持たない。
そういう世界でなければ、少年の殺意は、無垢で無為で無慈悲で無意味な殺意は、存在し得ない。
死に価値を見出さず。
殺意に意味を見出さず。
死と生がひどく曖昧で、そこに罪と罰とが介在しない。
眼前の少年が振るうそれは、異質な世界の異質な刃で、それが高村には腹立たしい。
否。それが、高村大にはひどく―――羨ましかった。
死に意味がなく。
傷つけることが罪でなく。
そんな世界に生れ落ちていればと、高村は思う。
思って、しかし、同時に高村は理解している。
そんな世界にはきっと、母も、和泉祥も、存在しない。
傷つけることはなく、愛することはなく、
傷つくこともなく、愛されることもなく、
それがひどく切なくて、それがひどく妬ましい。
和泉祥の笑顔を思い出し、
途端、心の中に黒くどろどろとしたものが染み出してくるのを感じ、
瞬く間に高村を埋め尽くした黒いものの、びっしりと細かい棘が
ざらざらと心の内側を這い回る感触から逃れようと強く頭を振り、
畢竟、高村大の世界はとうの昔に、壊れている。
「―――軽ィ、なあ」
ぐるぐると回る思考の果てに口をついて出たのは、そんな言葉でしか、なかった。
それは自嘲であり、自虐であり、自棄。
高村大を突き動かす無軌道な喪失感の輪郭。
それだけの一言を吐き棄てて、高村は一歩を踏み出す。
無造作とも見えるその一歩に、少年が反応した。
下段から踏み出し、胸の中央を狙って逆手に構えた刃を振り上げる軌道。
対する高村は更に一歩。
右の腕を胸の前に翳し、左の拳を引いた姿勢。
典型的なテレフォンパンチであるが、しかし高村は臆する様子もなく踏み込んだ。
実はこのとき、高村に策はなかった。
腕の一本もくれてやろうかと、そんな風に考えている。
肉を絶ち、骨に食い込み、しかし刃が止まればそれでいい。
左の一撃が入ればそれで終わり。
高村の脳裏にあったのは、それだけである。
普段の高村であれば、喧嘩に臨んでこれほどに無策で挑むことはない。
無数の実戦経験と天性の身体的素質、凶暴な野性と冷徹な戦闘勘を併せ持つ男であった。
勝利という目的に辿り着くための最短を計算し、その通りに歩んで、勝つ。
それが高村大という男である。
しかし今、高村に計算はない。
その生には既に意義がなく、そして眼前の少年の混じり気のない殺意を前に、
死すらその意味を喪失していく。
ならば、この場に於いて生と死の間に、価値の境界などありはしなかった。
片腕を断ち割られることに躊躇も恐怖もなく、高村が最後の一歩を踏む。
迎える少年が、刃を振るった。
山刀の刃が無色の殺意を乗せて高村大の生を終わらせるべく舞い上がり、そして。
「―――」
高村に、衝撃はない。
痛覚も、流血すら、なかった。
刃は、高村の踏み込んだその身体の、ほんの皮一枚を裂き、振り抜かれていた。
次の瞬間、少年が驚いたように見開いた目の、その真ん中に、高村の拳が叩き込まれた。
理由は、わからない。
少年の反応は完璧で、一瞬の狂いもないタイミングで刃は振るわれ、高村は片腕の喪失を覚悟していた。
少年が間合いを読み誤ったとしか、考えられなかった。
だが高村の思考はそこで止まっている。
少年に何があったのかを考えることに、意味などなかった。
ただ、この喧嘩が終わったのだと、それだけを理解していた。
固い音。
左の拳がめり込んだ少年の鼻腔から、一瞬遅れて鼻血が噴き出した。
大きく海老反りになった格好の少年目掛けて、高村が躊躇なく前蹴りを叩き込む。
前をはだけて素肌を晒す無防備な腹に靴底が沈み、少年が今度はくの字に身体を捻じ曲げる。
少年の手から、山刀が落ちた。
声も出せず腹を押さえた少年の、目の前に差し出されたこめかみに、右の拳。
ぐしゃり、とした手応えと共に、少年が地面に転がった。
蹲った少年の腹に、腹を押さえて空いた顔面に、顔面を庇って空いた脇に、エナメルの靴先がめり込む。
既に抵抗らしい抵抗が見られなくなっても、高村の足が止まることはなかった。
表情一つ変えず、淡々と少年を痛めつけていく。
苦悶に歪んだ少年が咳き込むのに濡れた音が絡み、吐き出す反吐に混じる赤い物が黒く濁り始め、
高村が一際大きく足を振り上げた、そのとき。
「―――もう、やめろよ!」
声が、響いた。
***
「あァ……?」
肩越しに振り向いた、そのリーゼントの男の眼光は凶悪で、全身が竦み上がりそうになる。
それでも、言葉は止まらない。
「やめろって言ってんだ! そいつ、ホントに死んじゃうだろ!」
鈴木由真はいつの間にか、立ち上がっている。
立ち上がって、切り裂かれた制服の隙間から零れる胸を隠すことも忘れ、声を張り上げていた。
「死ぬ……?」
「そうだよ! 由真はもう大丈夫だから! 助けてくれてありがと、でも、もういいだろ!?
そいつもう動けないみたいだし、あんたの勝ちだよ! だからもうやめろって言ってんだ!」
「助ける……? 勝ち……?」
男が、ゆっくりと息を吐き出しながら呟く。
「……お前……何、言ってんだ……?」
「な……っ!?」
由真の驚きをよそに、男の言葉は続く。
「お前を助けた覚えなんざねえし……第一、こいつが死んで……何が悪ぃ?」
言いざま、倒れた少年を蹴りつける。
咳き込んだ少年の口から、赤黒いものが霧のように噴き出した。
「―――やめろって!」
それが、人が死ぬということに何の疑問も持っていないようなその態度がどうしても許せなくて、
感情の命じるままに、由真は男の腕を取る。
腕を取って振り向かせ、そうして、男の顔を平手で打った。
ぱしん、と。
乾いた、小さな音が響く。
鈴木由真を満たしていたのは、怒りである。
別段、正義感の強い少女というわけではなかった。
彼女は我が強く視野の狭い、自分と自分の周りの人間だけを大切なものと思い込んだまま
ただ人生の最も輝く時を生きる、そんな、どこにでもいる少女でしかない。
それでも、決して許してはいけないものがあると、それだけは知っていた。
この殺し合いの島に放り出された由真が最初に覚えたのは困惑と怯懦である。
夜の闇に怯え、訳のわからない状況に怯え、独りであることに怯え、そうして最初に出会った人間が
最初にかけてくれた言葉は、死ね、だった。
刃物を向けられることに恐怖を感じる間もなく、斬りつけられた。
絶叫を上げようとした刹那、月光を背に現れたのは、獣のような眼をした男だった。
恐怖と絶望が精神を冒すよりも早く、由真は眼前に繰り広げられる攻防に心を奪われ、
その後に続いた凄惨な光景に目を奪われていた。
突きつけられた非日常を前に、困惑も、怯懦も、恐怖も絶望も、いつの間にか吹き飛んでいた。
代わりに鈴木由真という少女を包んでいたのは、ひどくクリアな感情。
剥き出しの情動、興奮に任せた衝動、虚飾を排した激情だった。
少女という命の在り方の、一番奥に位置する純粋さで、由真は高村を打っていた。
「……手前ぇ」
「殴るの? 由真も、あいつみたいに、死んだって構わないくらいに!
やれるもんなら―――」
瞬間。
光が、爆ぜた。
最初に感じたのは、痛みではなかった。
ほんの刹那の黒と、それからすぐに反転するような白一色の世界。
じわじわと湧き出すような、七色の細かい光の粒。
視界が、そういうもので埋め尽くされる。
熱い、と感じた。
鼻腔が、目の奥が、頭蓋骨のすぐ内側に張り付いた皮が、燃え上がるように熱い。
同時に感じたのは冷たさ。
強い炭酸を飲んだ後のような、痺れるような冷気が口の中にあった。
相反するそれらが由真の脳をぐねぐねと捏ね回し、まるで融かされた脳漿が
押し出されてくるかのように、どろりと何かが、流れた。
手で拭えば温かくぬるぬると滑って、赤いものと透き通るものとそれらが混ざりあったものが、
流れ出る鼻血と涙であると気付いて。
それからようやく、痛みが来た。
女の方が痛みに強いなどとは、誰の口にした戯言であったか。
暴力の齎す苦痛は、肉体よりも容易く精神を傷つける。
人が人に向ける害意が自らの周囲に偏在するという事実が心に牙を突きたて、
傷口から滲み込んだ毒が、精神の一番柔らかい場所を侵していく。
世界に敵が存在するという認識は、それほどに恐ろしい。
それは、味方と味方でない人間だけが構成しているはずの、日常という世界の終焉を意味していた。
たった一人の敵、たった一つの害意、たった一度の暴力が、世界を一変させる。
そうして世界は、敵とそうでないものに再構築されるのだ。
ある者はそれを大人になると言い、又ある者はそれを、幼年期の終わりと呼んだ。
新たな世界を前にしたとき、人間は二種に大別される。
恐怖に膝を屈し、眼前に拡がる世界から眼を背けて生きるようとする者。
もう一方が、決然と顔を上げ、終わりのない戦いを覚悟する者である。
そして鈴木由真は、後者を選べる数少ない少女の内の、一人であった。
「……これで分かったろ。消え―――」
消えな、というその言葉は、途中で途切れていた。
代わりに静かな境内に響き渡ったのは、乾いた音である。
二発目の、平手。
「手前ぇ……!」
先程とは逆の頬を赤く染めた男が、その鋭い瞳に憤怒の炎を宿らせて何かを言いかけ、
「―――」
ぐい、と止まらない鼻血を制服の袖で拭って真っ直ぐに男を見返す由真の視線に何を見たか、
ほんの一瞬だけ表情を歪めると、
「……下らねえ」
舌打ちをして、踵を返した。
神社を後にして山を下ろうとするその背に向けて、由真が口を開く。
「あんたさ……!」
答えはない。
男の歩みは止まらず、振り向きもしない。
「あんた……、」
聞くべきことなど何もない。
男にかけるべき言葉など、ありはしない。
ありはしないはずで、だから由真は、
「馬鹿野郎……!」
それだけを呟いて口を閉じ、歩み出す。
行く手には、遠ざかりつつある男の背中。
何をしている。
何をしようというのだと、自問する。
言葉を交わしたわけでなく、ただ暴力の応酬だけがあった。
だから理解はできない。
たとえ理解したところで共感も同情も、男には必要ないだろう。
情ではなく、興味ですらなく、しかし由真は、男を追って足を速める。
ただ、駄目だと思っていた。
あの男は、きっともう駄目なのだ。
あんな風に躊躇なく人を殺しかけておきながら、結局のところ自分も倒れている少年も
死に至らしめることなく、この場を去ろうとしている。
男がどんな生き方をしてきた、どういう人間なのかは知らない。
ただきっと、その中にはもう、生きるための芯が、ないのだ。
この殺し合いに勝とうとか、生き残ろうとか、望みを叶えようとか、そういうものの一切が、
あの男の歩く道の先からは失われているのだ。
だから男はもう駄目だ。
さっきのように戦って、戦って戦って、どこかで死んでしまうのだ。
それを確信しながら、だから由真は、駄目だと口にする。
「……そんなんじゃ、駄目だ!」
正義感では、決してない。
ただ、このまま男の背を見送って、そうしてどこかで男の死を聞かされるのは駄目だと、
そんな理屈に合わないことを、由真はその狭い視野の全部で考えている。
少女が少女と呼ばれる、その唯一の定義を、理不尽という。
鈴木由真は、少女であった。
******
―――畜生、
畜生、畜生、と。
月光だけが照らす境内に響く、重く低い声があった。
聞く者の耳朶に膿を滲ませるが如きその声音は、紛れもない呪詛である。
がり、と音がした。
呪詛に混じって響くそれは、血に濡れた手が砂利を掴んでは撒き散らす、音であった。
がり、がり、と。
ぱっくりと開いた傷口に小石が食い込むのも構わずに砂利を掴む手の持ち主を、刺々森鋭次という。
倒れ臥したまま、鋭次は呪詛を撒き散らす。
それは己に敗北を齎した世界への恨みであり、同時に敗北を赦した自身への、底のない責苦である。
あの一瞬。
リーゼントの男に向けて迎撃の刃を振るおうとしたあの刹那の直前まで、鋭次は
己の勝利を確信していた。
確信しながら敗れたのは、自身の不覚に他ならない。
男の目に宿る、粘りつくような光を鋭次は思い起こす。
これまで立ち合った誰にも感じたことのないような、奇妙に昏い色をした眼。
強者の重圧であれば、討条戒の方が数段重い。
しかし、あの男の目に宿るのはそれとも違う、理解の埒外にある何か。
鋭次の知らぬ、まるで異質な狂気とでも呼ぶべきもの。
立ち合いの中に、勝ち負けの他に何かがあるとでもいうような。
その何か、男が背負う、或いは男の生きてきた時間が背負う何かを、鋭次は知らぬ。
知らぬ何かに、怯えた。
踏み込んできた男の、こちらの全身を絡め取るような重さを宿した視線を間近で見て、
鋭次の心に守勢が芽生えた。
思わず左腕の無崩篭、ありもしない無敵の盾で、あの男の拳を、防ごうとした。
愚かな過ちに気付いて、しかしそれが余計に悪かった。
誤りが焦りを呼び、そして太刀筋に一瞬の、ほんの刹那の狂いを生じさせた。
狂いを生じて動き出した刃は故に止まらず、男の臓腑ではなく皮一枚を切り裂いて、
そうして鋭次は敗北を喫した。
それを不覚と、鋭次は思う。
思って、呪った。
男の宿す重さに呑まれた己が身の惰弱を、心の脆弱を、そして与えられた刃の薄弱を、呪った。
何故だ、と思う。
この左の手に無崩篭がない。
そして右の手には鋭斬刀が、なかった。
どちらかでもこの手にあれば、あれほどに無様な敗北を喫したりはしなかった。
勝者の栄光は鋭次の上に輝いていたはずだった。
勝利。
そう、最初は勝利を求めていた。
与えられた戦場で当然の勝利を収め、優勝者に与えられる望みのままという報酬で、
莫大な金を得ようと考えていたはずだった。
だが今となっては、そんな些事はどうでもよくなっている。
力が、欲しい。
刺々森鋭次は渇望する。
力を体現する刃を。
己が修めた技を存分に振るうことのできる白刃を。
こんな、不恰好な鉈もどきではなく。
―――刀が、欲しい。
ゆらり、と。
鋭次が立ち上がる。
血の絡んだ痰を吐き出せば、そこには何か小さな白いものが見えた。
折れた歯の欠片を踏み躙って、鋭次は天を見上げる。
真円に近い、銀色の光。
息を吸い込めば、鉄の臭いが混じっている。
全身が軋む。
傷めつけられた筋肉が悲鳴を上げ、罅の入った骨が絶望的な不協和音を奏でていた。
土と泥と己が血に汚れた体を見下ろして、鋭次が目を閉じる。
瞼の裏の闇に浮かぶのは、あの男の眼光。
屈辱という薪が、怨嗟という焔を燃え上がらせていく。
―――待っていろ。
そう呟いて目を見開いた鋭次の表情には、静かに歪んだ笑みが浮かんでいる。
【C-7 神社/一日目深夜】
【名前】高村大@特攻天女
【状態】 健康
【持ち物】ディパック(基本支給品一式、不明支給品1〜3)
【思考】0:死を迎えるまで蹂躙の高揚に酔う。
1:敵を殺す。
2:天野瑞希との合流は考えない。
3:背後の少女(鈴木由真)の存在は無視する。
※16巻143話後からの参戦です。ユエ=姫月ゆうこを知りません。
【名前】鈴木由真@女子高生
【状態】 肉体的には健康(制服の前が切り裂かれている)
【持ち物】ディパック(基本支給品一式、不明支給品1〜3)
【思考】
1:目の前の男(高村大)を追う。
2:絵里子、小川との合流を考える。
3:小田桐との合流を考える。
※参戦時期は不明です。
【名前】刺々森鋭次@斬
【状態】 ダメージ大(全身打撲、肋骨にヒビ)
【装備】天野瑞希愛用の山刀@特攻天女
【持ち物】ディパック(基本支給品一式、不明ランダム支給品0〜2)
【思考】
1:リーゼントの男(高村大)を殺す。
2:武器(刀)を調達する。
3:優勝し、報酬に金を得る。
※村山斬との戦いが決着する前からの参戦です。
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